心が聞こえる 8






それから数週間が過ぎたその日。
受付所にやってきたカカシは、イルカに無表情で報告書を差し出していた。
「お願いします」
「・・・お預かりします」
イルカが何か言いたげな表情を向けてきたが、カカシはその表情を変えなかった。
それ見て、少し悲しそうな表情を浮かべたイルカが何も言わずに報告書を受け取る。
チェックをする為に俯いたイルカの頭で、高く結った黒髪の尻尾が揺れる。
そこでようやくカカシは顔に貼り付けていた無表情の仮面を少しだけ外し、瞳を切なく眇めてイルカを見つめた。
いつもこうやってイルカの尻尾を見つめながら、今日はどこで飲もうかと考えていた事を思い出す。
イルカとの楽しかった思い出ばかりが脳裏に浮かび、途端、胸に走った痛みにカカシは眉間に少しだけ皺を寄せた。
報告書の文字を追っていたイルカのペンが終わりに近付く。それに気付いたカカシは、その顔に再び無表情の仮面を貼り付けた。

『今日は誘ってくれるかな・・・』

不意に聞こえてきたイルカのその『声』。カカシの心が、まるでクナイで切り裂かれたかのように悲鳴を上げる。
(・・・ゴメンね・・・)
カカシはもうイルカを誘えない。
自分の気持ちを知ってしまった今、イルカと一緒に過ごしたりしたらイルカの気持ちに応えたい心が、能力を知られたくないと思う心を押し退けて出てきてしまう。
自分の気持ちを伝えて、イルカと恋人同士という甘い時間を過ごしていれば、いつか必ずイルカにカカシの能力を知られる。

『信じられない』
『気持ち悪い』
『バケモノ』

これまでの女たちのように、そんな言葉を投げつけて離れていくイルカをカカシは見送れない。
愛してくれていた記憶を消して、またイルカと普通に接するなんて出来ない。
カカシから離れていってしまうくらいなら。愛してくれていた記憶を消してしまうくらいならいっその事。
そんな事を思ってしまうくらい、イルカを愛してしまっている事に気づいてしまった。
だから。
カカシは自分の心に言い聞かせる。
誘ってはいけない。誘っては駄目なんだ。イルカの側にいたらいけない。イルカから、自分を遠ざけなければ。
「・・・はい、結構です」
報告書のチェックを終えて顔を上げたイルカに、「どうも」と素っ気無く言いカカシは背を向けた。

『今日も誘ってくれないのか・・・』

途端、聞こえてきたイルカのその『声』に、カカシの胸が激しい痛みに襲われる。
悲しそうなその『声』は、いつもなら足を止めてしまうほどの威力を持っているのだけれど、カカシは歯を食いしばって、不自然に見えないよう足を進めていった。
ドアまであと少し。その少しの距離が、今のカカシには途方も無く遠く感じられてしまう。

『どうして・・・?俺、何か嫌われるような事をしたのか?』

胸を抉られるようなイルカのその『声』に、そうじゃないと大声で叫びたい。カカシは眉間に強く皺を寄せ、その衝動を懸命に抑えた。
口布の下できつく奥歯を噛み締めながら、やっと辿り着いたドアを震え始めた手でガラリと開ける。

『どうして・・・。どうしてですかカカシ先生・・・』

受付所から出てドアを閉める。
カカシの姿はもうイルカからは見えなくなったはずなのに、それでも、イルカの辛そうな『声』がカカシに届く。

『どうして・・・っ』

それについに耐え切れなくなったカカシは、震える両手をきつく握り締めながらずるずるとその場に座り込んだ。
白くなる程にきつく握り締めたその手を額当てに当てる。
(ゴメンね。ゴメンなさい。ゴメン・・・っ)
そうしてカカシは、小さく震えながら心の中でイルカにいつまでも謝り続けた。




残暑厳しい八月末になっても、イルカは相変わらずカカシに誘って欲しいと『声』を向けてくる。
そして最近は。

『もうすぐカカシ先生の誕生日だなぁ』

報告書を片手に受付所のドアを開けようと手をかけたところで、聞こえてきたイルカのその『声』に、カカシはその瞳をきつく閉じていた。
(あなたは・・・、どうしてそんなに・・・)
もう今では、自分でも冷た過ぎるだろうと思えるほどの態度をイルカに見せているというのに、イルカの『声』は変わらない。変わらずカカシを好きでいてくれている。
そんなイルカに、もしかしたらと期待をしてしまっている自分がいる。
もしかしたら、知られても変わらないかもしれない。
もしかしたら、知った後も変わらず好きでいてくれるかもしれない。
(・・・そんな期待、叶えられた事なんてないだろう?)
今までそうやって何度も期待して、それが叶えられた事など一度もないくせに。

『プレゼント何にしよう・・・』

再び聞こえてきたイルカのその『声』に、カカシはドアに掛けているその手をきつく握り締めた。
(あなたが欲しいよ、イルカ先生・・・)
切なく顔を歪め心の中でイルカへとそう告げると、カカシは閉じていた瞳をそっと開けた。ドアに掛けていた手をゆっくりと離す。
そうしてカカシは、その手に報告書を持ったまま踵を返して歩き出した。
愛しているのに、これ以上イルカに冷たい態度を取りたくはなかった。
それに、今イルカに会ったりしたら本当にイルカが欲しいと告げてしまいそうだった。
受付所の方から聞こえてくるイルカの『声』を聞きながら、カカシはいつも以上に背中を丸めその場を後にした。





里内がざわついている。
任務を早々に終わらせ、遠くにある大きな入道雲を見上げながら里へ戻って来たカカシは、大門をくぐってすぐにそう感じた。
(何かあったのか・・・?)
嫌な予感がして、急いで受付所へと向かう。
すると、受付所には厳しい表情を浮かべた綱手と大勢の人が集まっており、騒然としていた。何かが起こったのだと確信する。
「状況を説明しろ!早く!」
カウンターに座った綱手の怒声が鳴り響く。
「火の国大名への書簡を運ぶ任務に就いていた小隊が、帰還途中に国外れの森で抜け忍と思われる集団に襲われたとの報告が入りました」
受付所で何度かイルカと一緒に座っているのを見かけた事のある男が綱手の前に立ち、どこか辛そうな声で説明を始める。
「怪我人は三名。部隊長は行方不明です。戻った者の話では、・・・部隊長自ら囮になったと」

『全員、酷い怪我だった』
『部隊長が行方不明なのか』
『これは部隊長は絶望的だな・・・』

そんな周りの『声』を聞きながら、カカシは綱手の側へと近づいた。行方不明者がいるのなら、カカシの探索能力が必要になるかもしれないと思った。
「部隊長は誰だ」
綱手のその言葉に、説明をしていた男がぐっと詰まる。

『・・・イルカ・・・っ』

聞こえてきた男のその『声』に、カカシは一瞬、目の前が暗くなるのを感じた。
(まさか・・・っ)
嘘だ。今だけはその名前を聞きたくない。今では聞くだけで胸が苦しくなるほど愛しい、その名前だけは。
そう強く願ったのに。
「・・・うみのイルカ中忍、です・・・」
男の口から発せられたその名前に、カカシはひゅっと一瞬息を止めていた。