心が聞こえる 9






イルカの名前が出た途端、ざわついていた周りがさらにざわつき始める。
そんな音をどこか遠くに聞きながら、カカシは手甲に覆われたその手をぐっと強く握り締めていた。血が滲むほど握って感じる痛みに、これは現実なのだと思い知らされる。
ゆらゆらと視界が揺れ、目の前が霞む。
足にぐっと力を入れていなければ倒れてしまいそうだった。
「カカシ」
綱手に名を呼ばれ、震えようとする手を懸命に抑えていたカカシは顔を上げた。
「任務だ。抜け忍の始末と、行方不明者の探索。頼んだよ」
任務。そうだ。しっかりしろ。
動揺している場合じゃない。
こうしている間にもイルカは、イルカは―――。
(イルカ先生・・・!)

『しっかりするんだよ!カカシ!』

聞こえてきた綱手の大きなその『声』に、カカシの身体が僅かに震えた。小さく震え始めていた手が止まる。
綱手が厳しい目でカカシを見ていた。

『お前しかイルカを見つけられないんだ。忍犬とその力で必ず探し出すんだよ。いいね』

イルカは生きてる。絶対だ。信じろ。
そんな綱手の『声』を聞きながら、カカシはイルカを強く想った。
自分のこの力。
どうして自分にこの力があるのか、ずっと不思議だった。
きっと、この時の為だけにもたらされた能力に違いない。
イルカを探し出し、助ける為だけに。
(必ず探し出す・・・!)
ぐっと奥歯を噛み締めたカカシは、綱手の目を見つめ返すと力強く頷いた。




夏特有の厚い雲が空を覆い始める。
カカシは大きく跳躍しながら、その空をギッと睨みつけた。
(クソ・・・ッ!)
早くしないと雨が降り出してイルカの匂いが消えてしまう。報告にあった抜け忍に襲われた場所へと急いで向かう。
抜け忍殲滅とイルカ探索の為に組まれた部隊は置いてきた。
カカシのスピードに付いて来れるものがいなかったからだ。
「先に行く。イルカ先生を見つけたら式を飛ばすから」
部隊の医療忍にそう告げ、カカシは足にチャクラを集中させてスピードを極限まで上げた。
スピードを上げ過ぎて耳鳴りがする。
カカシは眉間にきつく皺を寄せてそれに耐えながら、それでも速度を落とそうとは思わなかった。
(速く・・・っ。もっと速くだ・・・ッ!)
もつれそうになる足を叱咤して、さらにスピードを上げる。
急いでイルカの元へ。
カカシの頭の中にはそれしかなかった。




静かな森の中に、カカシの激しい息遣いが響く。
イルカが襲われた場所が近いのだろう。濃くなり始めた雨の匂いに混じり、火薬の匂いがし始める。
そんな中、戦闘の跡が色濃く残る場所へとようやく辿り着いたカカシは、息を整える間もなく、すぐに印を組み地面で手を合わせた。
「口寄せの術!」
煙を上げて現れたパックンが「よぉ、カカシ」と前足を上げてくる。
だが、カカシはそれに挨拶も返さず、
「お願い、イルカ先生を探して!早く・・・っ」
と、焦った口調で告げた。それを見たパックンが顔を引き締める。
「アカデミーのイルカか?」
「そう。匂い、覚えてるでしょ?早く!」
再度そう言ったカカシを見て、パックンが溜息を吐く。
「そう焦るな。おぬしが焦っておっては聞こえるものも聞こえなくなるぞ。・・・その気持ちは分かるがな」
そう言って空を見上げたパックンに倣って、カカシも空を見上げる。
するとそこには、今にも降り出しそうな黒い雲が存在していた。それを恨めしそうに見て、チッと舌打ちをする。
確かに焦っていると『声』が聞こえなくなってしまう。
雨が降り出してしまえば、パックンは匂いを追えない。そうなれば、残るは範囲の限られているカカシの能力に頼るしかなくなるのだ。
「・・・ゴメン」
素直に謝ったカカシに、「構わん」と言ってくれたパックンがさっそく匂いを嗅ぎ出す。
「こりゃ随分と人数が多いな・・・」
戦闘の跡の激しさを見ても、大人数に襲われた事が分かる。
(こんな中、イルカ先生一人で・・・っ)
どうして囮なんかになった。
どうして逃げなかった。
そうは思っても、あのイルカが怪我をした者を放って逃げるはずもなく。逆に、怪我をした者を庇って囮になったのだろうと易々と想像がついてしまう。
「こっちだ」
イルカと、それを追った抜け忍たちの匂いの跡を見つけたパックンが走り出す。
その後を追いながら、カカシはイルカの無事だけをただ祈っていた。




ぽつぽつと雨が降り出す。
それは直ぐに辺りが霞むほどの豪雨となって、イルカの匂いを追って走るカカシとパックンに降り注ぎ始めた。
これではすぐに匂いが消えてしまう。イルカの足取りが追えなくなる。
「クソッ!・・・パックン、まだ大丈夫?」
「もうかなり消えておるが・・・、そっちはどうだ」
「・・・まだ聞こえない」
いつも疎ましく思っていた『声』を、こんなにも切望した事はない。
イルカの『声』が聞きたい。あの素直な『声』が。
カカシを好きだと言ってくれたあの『声』が今、凄く聞きたい。
「・・・だめじゃ。匂いが消えた」
パックンが足を止めてそう言うのを、立ち止まったカカシは絶望と共に聞いた。匂いを追えないのでは、イルカを探すのは一気に困難になってしまう。
カカシの能力だけでは、この広い森の中からイルカを見つけ出すのは奇跡に近い。
どうして聞こえない。いつもは聞きたくなくても聞こえてくる『声』が、こんな時に限ってどうして。
(どうして・・・っ)
あぁと天を仰ぎ、顔を打つ雨に瞳を細める。
カカシのその目尻を、雨なのか涙なのか分からない水滴がいくつもいくつも流れた。
この能力はこんな時にすら何の役にも立たない。その事実と自分の無力さに、カカシは打ちのめされていた。
もうイルカの『声』は聞けないのかもしれない。あの素直な心地よい『声』は。
そう考えた途端、カカシはカタカタと震えだした。片腕をぐっと抱き震えを治めようとするが止まらない。
こんな事なら、能力を知られてしまってもいいから、イルカの気持ちを受け入れていれば良かった。
こんな事になると分かっていたら、イルカにあんなに冷たい態度は取らなかった。
優しく慈しんで、愛して愛して。真綿でくるむように、あの素直な人をこの腕に抱き込みたかったのに。
そうして自分も好きなのだと、こんなにも愛しているのだと、その耳元で告げたかったのに。
それをしなかった今、こんなにも。こんなにも後悔が押し寄せてくるなんて。
(イルカ先生―――!)
イルカの名を心の中で大きく叫び、天を仰いだままきつく目を閉じる。
今のカカシには、後悔する事しか出来なかった。