始まりの雨 3






夕飯時だからか、背後にある居酒屋がにぎやかだ。
外にまで漏れ聞こえてくるそれを店の軒先で聞きながら、カカシはぼんやりと雨を眺めていた。
五代目への任務報告を終えた帰り。雨に降られてしまったカカシは、たまたま近くにあったこの居酒屋の軒先に飛び込んでいた。
すぐに止むだろうと思っていたのだが、徐々に強くなる雨脚にこれは止まないかもなと小さく溜息を吐く。
(誕生日だってのに・・・)
ズボンのポケットに手を入れ空を見上げると、その空はどんよりとした雲に覆われ、次から次へと雨を降らせていた。
それを見て、カカシは同じだなと思った。
カカシの心もどんよりとした澱みで覆われている。違うのは、カカシの心は渇き切っているという事。
あれから休み無く働いているカカシだ。誕生日くらい休ませてくれてもとぼやくカカシに、相変わらず人使いの荒い五代目は笑みすら浮かべて任務を言い渡してきた。
その時は、それほど過酷な任務になるとは五代目も思っていなかったのだろう。カカシとて、それは同じだった。
里に帰還してすぐ。
カカシは、どこにも血は付けていないというのに、むせるような血の匂いをその身に纏い、五代目へと任務報告をした。
「すまなかったね」とは、報告終了後に小さく呟かれた五代目の労わりの言葉だ。
今日の任務内容を思い出したカカシの心が軋み始める。
以前ならば、何の感情も湧かなかった。心に澱みが蓄積していく事も何とも思わず、機械のように次の任務に就いていただろう。
イルカに出会ってからだ。そんなカカシに変化が起こったのは。
心が澱みを嫌うようになった。
イルカと会い、他愛ない事を話すだけでカカシの心は穏やかで居られた。機械ではなく人で居られた。
澱みを消して欲しい。そう思う心が、それを消してくれるイルカを求め叫んでいる。
それなのに。
もうどれだけイルカと話せていないだろう。
(会いたい・・・)
無性にイルカに会って話したいと思った。
空を見上げていた視線を下げ、小さく溜息を吐く。
いつまでもここに居ても仕方ない。止みそうにない雨に、諦めて濡れて帰るかと一歩踏み出した時だった。
今、カカシが心から渇望している暖かな気配が、こちらへと近付いて来るのに気付いた。
イルカだ。
目的地はカカシの背後にある居酒屋なのか、徐々に近付いてくるイルカの気配。それを感じながら、カカシは少しだけ迷った。
迷った末、一歩踏み出していた足を戻す。
イルカと少しでも話したい。そう思うカカシの心がそうさせた。
「・・・あ」
軒先に立つカカシに気付いたのか、聞こえてくる小さな声と、少しだけ躊躇う気配。
それに、さも今気が付きましたというように顔を上げると、カカシはイルカへと視線を向けた。
「・・・あぁ。こんばんは、イルカ先生」
傘を手に、少し遠い場所で立ち止まっているイルカへ柔らかな笑みを浮かべてみせる。
だが、あれからカカシに会うと気まずさを感じるらしいイルカは、カカシのその笑みに「こんばんは」とぎこちない笑みを返してきた。
目的地はやはりカカシの背後にある居酒屋なのか、傘を閉じながら軒下に入ってくる。
それを視界の端に捉えながら、あぁダメかもしれないなとカカシは思った。
少しだけでいい。イルカと話したい。
カカシはそう思っているのだが、イルカはそうではないのだろう。
二人の間に気まずい空気がまた流れ始めてしまっている。これでは、会話らしい会話は望めない。イルカだって困ってしまう。
(諦めたほうがいいか・・・)
そう思ったカカシが、「それじゃ」と雨の中を再び一歩踏み出そうとした時。
「・・・あのっ」
イルカが声を掛けてきた。
「ん?」
「・・・あの時は、すみませんでした・・・」
振り向いたカカシに、思い詰めた表情でそう言ったイルカがスッと頭を下げてくる。その手に持った傘をきつく握って。
それを見たカカシは苦笑した。
あの時の事をずっと気にしているらしいイルカがもどかしい。カカシはもう気にしてなどいないというのに。
「・・・謝らないで下さい。オレも言い方が悪かったから、おあいこですよ」
「でも・・・っ」
カカシのその言葉に、イルカが顔を上げてさらに続けようとする。だが、カカシは首を振る事でそれを止めさせた。
「もう気にしないで。ね?」
カカシへとおずおずと向けられる視線。まだ気になるらしいイルカにどうすればいいだろうかと考えていると、イルカが「あの」と再度声を掛けてきた。
「これから何か用事がありますか・・・?」
「いえ。帰るだけですけど・・・」
そう答えると、イルカが僅かに身を乗り出してくる。
「それなら、ここっ。ここ、俺の馴染みの店なんですけど、結構美味しい酒が置いてあるんです。一緒に飲みませんか?お詫びに奢らせて下さい・・・っ」
二人の背後にある居酒屋を指差したイルカが、一気にそう告げてくる。その表情は随分と必死だ。
イルカからそんな風に誘ってくれたのが嬉しかった。
「・・・お詫びは必要ありませんよ」
そう告げると、断られると思ったのかイルカが不安そうな表情を浮かべて見つめてくる。
それにふわりと笑みを返して。
「奢りじゃなければ是非。夕飯もまだですし、オレもイルカ先生と久しぶりに飲みたい」
そう告げると、イルカがぱぁと嬉しそうな笑みを浮かべた。カカシの心を覆っていた澱みが途端に消える。
「ありがとうございます!」
イルカが満面の笑みを浮かべて礼を言う。
(・・・礼を言うのはオレの方ですよ、イルカ先生)
心の中でイルカへとそう返しながら、カカシは身の内から溢れ出す想いに僅かに瞳を眇めていた。
イルカが愛しい。そう心が叫んでいる。
こんなにも誰かを愛しいと思った事は初めてで少し戸惑う。
けれど。
(悪くないね・・・)
こんなにも胸が暖かくなるのなら悪くない。
カカシは、居酒屋の中へと先に立って案内するイルカにふと笑みを浮かべながら、そう思った。