始まりの雨 4 イルカのお気に入りなのだというその居酒屋は、小さいながらも繁盛しているようだった。 「いらっしゃい」とカウンターから声を掛けてきた女将さんに、「上、空いてますか?」とイルカが訊ねる。 笑顔で頷いた女将さんを見たイルカが、「こっちです」とカカシを促す。店の奥にある上がり口でサンダルを脱ぎ、二階に続いているらしい階段を上る。 それに続き、階段を上がってすぐの小さな個室にイルカと共に入ると、そこは下の喧騒が嘘のように静かだった。 イルカが部屋に入ってすぐにある窓に近寄り、少しだけ開ける。涼やかな秋の夜風に混じり、雨の匂いが入り込む。 奥の座布団を勧められそこに座ると、イルカもテーブルを挟んでその向かいに座った。 「夕飯まだなんですよね?ここ、どれも美味しいんですけど、色んな焼き魚定食があって、秋刀魚も凄く美味しいですよ。酒は・・・どれにしましょうか」 「イルカ先生にお任せしますよ」 イルカから渡された品書きを受け取りながらそう答えると、イルカも品書きを手に取り何を頼もうか考え始めた。どこか嬉しそうな表情で。 久しぶりに見るイルカの明るい表情に、カカシの顔も自然と綻ぶ。 「カカシ先生は、辛口の方がお好きでしたよね?」 イルカが品書きを見ながらそう訊ねてくる。 「先生はやめて下さいね」 やはりイルカが勧めてくれた焼き秋刀魚定食だろうかと、品書きを眺めながらカカシがそう返すと、イルカが品書きに落としていた視線を上げた。それに気付いたカカシも顔を上げ、イルカを見つめる。 意味が分からなかったのだろう。少し首を傾げ、カカシを不思議そうに見つめてくるその仕草が相変わらず可愛らしい。 「オレはもう上忍師じゃないんですから。『先生』はやめて下さい。ね?」 柔らかな笑みを浮かべ再度そう告げると、ようやく合点したのかイルカは「あぁ、はい」と言って再び品書きに視線を戻した。そして。 「・・・カカシさんは辛口でいいですよね」 先ほどと同じ台詞を、少し言い換えて告げてくる。恥ずかしそうに。 どうやらイルカは、カカシといると相変わらず緊張するらしい。 カカシはまだ素顔を晒していないというのに、カカシの笑顔を見た途端、イルカの頬が僅かに染まったのだ。 カカシの好みを覚えてくれているイルカが嬉しい。 以前と同じく、カカシの事を意識してくれているらしいイルカが愛しい。 「ん。お願いします」 ふと小さく笑みを浮かべると、カカシは品書きに視線を落としながらそう答えた。 その後。 注文した品が全て出揃い、イルカから「どうぞ」と酒を勧められた時。 実は今日は誕生日なのだと告げてみると、イルカは驚きに目を見張った後、それはそれは嬉しそうに笑って、 「お誕生日おめでとうございます!」 と、祝ってくれた。 美味しい食事に美味しい酒。そして、小さな個室で過ごすイルカとの時間。 誕生日のその日、その居酒屋でイルカと過ごしたその時を、カカシは一生忘れないだろうと思った。 年の瀬だというのに、争い事というものは絶えないらしい。 カカシは今にも降り出しそうな寒空の下、言い渡された任地へと急いでいた。 口布越しに吐き出される息が白い。防寒用のマントを着ていても、手が震えそうになる程の寒さを感じている。 季節はすっかり冬を迎えていた。 あの日以降、イルカとの距離は再び近づいていたが、カカシの任務が相変わらず休み無く入る為、イルカに会える機会は未だに少ない。 しかし、混乱していた里は徐々に落ち着きだしたのだろう。カカシはSランクだけでなくAランク任務も引き受けるようになっていた。 Aランク任務なら、報告書を提出する際に受付所で時々イルカに会える。話せる。 徐々に増えていくイルカとの時間。 カカシの時間さえ空けば、ごくたまにではあったが一緒に飲みにも行けた。 そんなイルカとの時間を心の支えに、過酷な任務をこなす日々が続いている。 連日休み無く引き受ける任務で疲れが溜まってはいたが、カカシはそれでも休みたいとは言わなかったし、思わなかった。 年の瀬ともなるとさすがにSランク任務は入らないのか、ありがたい事に、最近はAランク任務ばかりだ。 だが、年末年始くらいは家族や恋人と過ごしたいと休みを取る者が多い。 アカデミーも休みに入っているし、年末年始はイルカも休みを取っていて会えないのではと思っていたのだが、ここ最近、任務の報告に受付所へと向かうと必ずイルカがいるのだ。 今回の任務もAランク任務だ。終わればきっと、受付所でイルカに会えるだろう。 『お疲れ様です、カカシさん』 今のカカシはイルカのこの一言と笑顔の為に、任務を頑張っていると言っても過言ではない。 冷たい風を切って跳躍しているカカシの身体は、指先の感覚が無くなりそうな程に冷たかったが、イルカの笑みを思い浮かべた途端、胸がほんのりと暖かくなるから笑ってしまう。 イルカの事がそれ程愛しい。 会う度にイルカを恋しいと思う気持ちは、どんどんカカシの心に募っていっている。 いつか。 里が落ち着き、今以上にイルカと会える時間を取れるようになったら。 伝えられたらいい。この恋心を伝えたい。 (受け入れてくれるといいけど・・・) イルカのカカシに対する態度を見る限り、好意を持たれてはいるのだろう。 だが、イルカのその気持ちが恋心だとは限らない。 ただ友人として好きなのかもしれない。以前イルカが言ったように、端正な顔立ちをしているカカシに対し、単に緊張しているだけなのかもしれない。 イルカの口からはっきりと、カカシに対する想いらしきものを聞いたわけではないのだ。 どうかこの想いを受け入れて欲しい。側にずっと居て欲しい。 カカシのこの心はもう、イルカ無しでは穏やかで居られない。 胸を暖めてくれるあの存在を、この手で包み込みたい。 あの笑顔を、側でずっと見ていたいのだ。 イルカを想いながら木の枝を大きく蹴ったカカシの頬を、ポツと冷たいものが打つ。 雨に降られると何かとやっかいだ。急いだ方がいいだろうと、カカシは後ろを僅かに振り返った。 「少し急ぐぞ!」 「承知!」 カカシのその言葉に応えたのは、一個小隊を率いる部隊長クラスの忍が数名。 今回の任務は少し大きい。 小競合いが絶えず、他国に押され始めている国境付近の警備の強化。 国を守るため。ひいては、里を守るための任務だ。 総隊長としてのカカシの責務も大きい。 前方へと視線を戻し、気を引き締め直したカカシの腰にあるポーチ。そこにはイルカから貰った大事な傷薬が入っている。 もう中身は使ってしまって無いが、空になった小さなその入れ物を、カカシはいつも肌身離さず持っている。お守りのように。 (頑張りますよ、イルカ先生) 里にいるイルカを守るため。イルカの元へと早く帰るため。 カカシは足にチャクラを集めて全力で枝を蹴り、降り出した雨の中を大きく跳躍した。 |
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