静かな雨 3






その光景が信じられない。いや、信じたくない。
「・・・!」
土の国へと続く街道から少し離れた場所に血を流し倒れていたのは、イルカに付けていた忍犬だった。
苦しいのだろう。ハッハッと短く紡がれる息。ぐったりと弛緩した忍犬の身体には、大きな傷跡。
それを見たカカシはその眉間にくっきりと皺を寄せ、仲間に囲まれ横たわる忍犬の側へと急いで降り立った。
「しっかりしろ・・・!何があったッ」
膝を付き、忍犬の怪我を診ながらそう訊ねるカカシの背後に、辺りの匂いを嗅いでいたパックンが近寄ってくる。
「・・・どうやら複数に襲われたようじゃ。イルカの他に数人の匂いがする」
「・・・っ」
その言葉に息を呑んだ。
襲われたとはどういう事だ。ここはもう火の国で、イルカが襲われる理由なんてそうそうないはずなのに。
ポーチからガーゼと包帯を取り出し、忍犬の刀傷らしき傷口へとガーゼを押し当てる。
痛みに呻く忍犬を「頑張れ」と励まし、その傷を応急手当しながら、カカシは背後のパックンへと問いかけた。
「イルカ先生は・・・」
「・・・連れ去られたようじゃな」
忍犬に包帯を巻いていたカカシはその言葉に瞠目した。続いてその瞳を眇め、ギリと鳴るほどに奥歯を噛み締める。
包帯を巻き終えると、カカシは荒い息を吐いている忍犬の頭をそっと撫でた。
イルカを守ろうとして無理をしたのだろう。忍犬を見つめるカカシの眉根が寄る。
「後でちゃんと治療してやる。・・・よく頑張った。戻って休んでろ」
カカシの囁くようなその声に忍犬がうっすらと瞳を開ける。それに一つ頷いて見せ、カカシはその忍犬を戻した。
イルカが連れ去られた。里の同胞で、何よりカカシの愛しい恋人であるイルカが。
(必ず無事に連れ戻す・・・!)
心にそう誓いながらスッと立ち上がると、カカシは周りに待機する忍犬たちへと低く告げた。
「イルカ先生を追うぞ・・・!」
「承知!」
カカシの言葉に力強く応えた忍犬たちが、イルカの匂いを追って走り出す。カカシもすぐにその後を追い始めた。
(イルカ先生・・・!)
忍犬たちが導く中、眼光鋭く跳躍するカカシの姿を、夜の闇が徐々に覆い隠そうとしていた。


*


夜の帳が完全に落ちた頃。
土の国との国境付近にある森に辿り着き、木々に身を潜めるカカシには、春を呼ぶ冷たい雨が静かに降り注ぎ始めていた。
「・・・この中?」
カカシの低く潜めたその声に、屋敷を探って戻ってきたパックンが一つ頷く。
「そう・・・」
小さくそう呟いて、カカシはひっそりと佇むその屋敷へと視線を向けた。
イルカを襲った連中だろう。屋敷の周りを抜け忍らしき男たちが数人警護している。
中にイルカが居るのなら異変を知られると不味い。
一気に片を付けた方がいいと判断したカカシは、雨に濡れ始めた額当てをずらし、写輪眼を宿すその左目をスッと開眼した。
それを見て、カカシの周りで待機していた忍犬たちが立ち上がる。
「・・・行くよ」
月の無い夜の闇に、カカシの紅い瞳が輝いた。




静かな雨音に混ざり、部屋の片隅に置かれている蝋燭がジジと燃える音がする。
外の抜け忍たちを呻き声すら上げさせる事無く昏倒させたカカシは、屋敷の中庭に降り立つなり目に飛び込んできたその光景に、その瞳を見開いていた。
中庭に面した部屋の一つ。
その中にイルカが居る。
装備は全て奪われたのだろう。全身を縛られ、辛そうな表情で布団の上に横たわるアンダー姿のイルカが。
それだけじゃない。
身分の高そうな衣装を纏った白髪交じりの男が、そのイルカの上に伸し掛かっている。下卑た笑みを浮かべ、その手は小さく震えるイルカの身体に今まさに触れようとしていた。
(・・・!)
それに気付いたカカシの身体中の血液が一気に逆流する。
次の瞬間。
カカシはその男の衣服を雨に濡れた片手で掴み締め、男の身体を奥の壁へと叩きつけていた。
「かは・・・ッ!」
そのまま男の衣服で首を締め上げるカカシの耳に、男が呻く声が聞こえてくる。
それに、背後からはイルカの荒い息使いも。
「・・・あの人に何をした」
「・・・っ」
男をその瞳で殺さんばかりに射竦めてそう訊ねるカカシの声は低く、それに慄いたのか男が息を呑む。
「何をした・・・ッ!」
「ぐ・・・ッ!」
カカシの手が男の身体を再度壁に叩き付ける。
その間も、背後にいるイルカが時折苦しそうに呻く。聞いた事もないイルカのその声に、カカシの血液はさらに沸騰した。
カカシがこんなにも感情を露にした事など、今まで一度としてない。
冷静沈着。任務時のカカシを評した言葉だが、カカシは今、その言葉とは程遠い場所に居た。
締め上げる男の顔が徐々に赤く染まっていく。
イルカも苦しそうな表情を浮かべていた。
カカシがいるというのに、声を掛けて来ないイルカ。
それすら出来ない状況へとイルカを追い込んだらしいこの男。許せるはずがない。
じわりじわりと男の首を絞めていくカカシの背に、イルカの側に付いていたパックンの焦ったような声が飛んで来る。
「待てカカシ!イルカの様子が・・・っ」
その言葉にハッとした。
男の身体を解放する。途端、酸素を求めて咳き込む男を放り、カカシは背を向けて布団の上に横たわるイルカの側へと近寄った。
「イルカ先生・・・ッ!」
「や・・・ッ!」
抱き起こそうとその肩に手を掛けた途端、イルカが悲鳴のような声を上げ、カカシの手を拒絶するように身を捩る。
どこか痛むのかもしれない。
そう思ったカカシは、どこが痛むのか訊ねようとイルカの背後からその顔を覗き込んだ。
「・・・っ」
その瞬間、カカシは息を呑んでいた。
普段、凛とした澄んだ瞳で見つめてくるイルカが、虚ろな瞳でそこにいる。
上気した頬。とろんと蕩けた瞳。僅かに開かれた唇からは、しきりに甘い吐息が漏れていた。
今まで見た事のないイルカの淫猥なその表情。
それを見たカカシは動きを止めていた。知らず喉が鳴る。
そんなカカシの耳に、呻いていた男がふっと笑う声が聞こえてくる。
「・・・いい表情だろう?」
下卑たその笑い声に、カカシは拳をきつく握り締め奥歯をギリと噛み締めた。
「対忍用の媚薬だよ。私の言う事を全然聞かなくてねぇ・・・。たっぷりと打ったから、そろそろ気がおかしく・・・っ」
カカシが振り返り、男へとゆらりと視線を向ける。
その色違いの鋭い瞳に射竦められ、男は続く言葉を飲み込んだ。
周囲をじわりじわりと冷気が覆い始める。
それは、カカシがその身体の奥底から発する殺気だった。