正しい犬のしつけ方 14






もう近寄らない。
カカシのその言葉は本当だった。

アカデミーの中庭で弁当を食べるイルカの箸が止まる。
あの日以来、カカシは本当にイルカに近寄らなくなっていた。
アカデミーにもやって来なくなった。
受付所で顔を合わせても、カカシは一度たりともイルカに視線を合わせることをしない。
報告書もイルカがカウンターに座っていても別の人間に提出し、提出し終わったらすぐに受付所を出て行く。
その間、カカシは表情を変えず、一言も発しない。無言だ。
カカシのそれまでのイルカに対する懐きぶりを知っている人間は、そんなカカシを見て、こぞってイルカに質問を浴びせ掛けた。
喧嘩でもしたのか。
何があった。
そう訊ねられても、イルカは笑って「何も」と言う事しか出来なかった。
(言えるはずない・・・)
二人には、最後まではしていないが身体の関係があって。
身体は悦んでおきながらそれを拒絶したイルカに、カカシがもう近寄らないと約束したなんて、言える筈が無かった。
目の前にある弁当をぼんやりと眺める。
こうやって一人で食べるのが当たり前だったはずなのに、毎日のようにカカシと一緒に食べていたからか、隣にカカシが居ない事に違和感を覚えた。
あまり減っていないその弁当の中身は、ここ最近、毎日同じ内容だ。
綺麗に巻かれた甘さ控えめの玉子焼きに、茄子の炒め物、秋刀魚を柔らかく煮たもの。
全て、カカシが好物だと言っていたものばかり。
(何やってんだ俺・・・)
口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
あんな事をされたのに、怒るどころかカカシが謝りに来るかもしれないと、こうやってカカシの好物ばかりの弁当を作って待っている自分が滑稽だった。
あんなにカカシを拒絶しておいて。そのカカシにはもう、イルカの存在は無視されているというのに。
溜息を吐きながら、空を見上げる。
突き抜けるような青空が、見上げるイルカの目に沁みた。
浮かんできた涙を慌ててゴシゴシと忍服の袖で拭いながら、イルカは隣に誰もいないのが淋しいと思った。




カカシがイルカに近寄らなくなってしばらくして、上忍師とアカデミー教師との親睦会が開かれることになった。
行くか行かないか、イルカはギリギリまで迷った。
上忍師として親睦会に来るだろうカカシに会いたくない。
いつものように、イルカの事を視界に入れようとしないカカシを見たくなかった。
職員室に一人残って、別に今日やる必要のないテストの採点をしながらグズグズと迷っていると。
「おい、何やってるんだよイルカ。もうすぐ親睦会の時間だぞ?」
イルカを探しに来たのか、先に行っていたはずの同僚が、ガラリと職員室のドアを開けてそう声を掛けてきた。
「あー。これ片付けてから・・・」
行きたくないとは言えず、そう誤魔化していると。
「・・・おまえな。採点なら今日じゃなくてもいいだろ?遅れたりしたら、教務主任に思いっきり嫌味言われるだろうが」
そう言いながらずかずかと近寄ってきた同僚に、腕を取られた。
「さっさと行く」
有無を言わせない様子の同僚にそう言われて、どうやら逃げられそうにないと思ったイルカは、ハァと諦めの溜息を吐きながらのろのろと立ち上がった。


会場となっている居酒屋へ親睦会が開かれる前に何とか着いたイルカは、座敷の出入り口に近い下座で空いている席を探して同僚と共に座った。
辺りを見回して、ふさふさとしたあの銀髪がない事にホッと溜息を吐く。
カカシはまだ来ていないようだった。
(良かった・・・)
時間となり、親睦会が始まっても来ないカカシに、もしかしたら任務が入って来れないのかもしれない、会わなくて済むかもと、内心安堵していたというのに。
「ゴメン、遅れちゃった」
背後にある座敷の扉がカラリと開き、そこから聞こえてきたその声に、イルカはビクリと身体を震わせた。
声の主が、身体を強張らせて座っているイルカの横をスッと通り抜ける。
カカシだった。
(声、久しぶりに聞いた・・・)
あれから、カカシの姿は見ても声は一度も聞いていなかった。
イルカの前に現れるカカシはいつも、無表情で無言だったから。
少し丸くなっているその背中を、そろそろと見つめる。
上座に座っていたアスマや紅たちから声を掛けられたカカシが、その瞳を弓なりに細めるのを見て、イルカの胸がツキンと痛んだ。
ジワリと涙が浮かびそうになって、慌てて俯いた。
喉を焼く程強い酒が入った杯をグイと呷って、ハァと溜息を吐く。
(情けない・・・)
あれほど懐かれていたカカシに無視されて、そのカカシが他の誰かに笑みを向けたのを見ただけで泣けてくるなんて。
まるで、飼い犬が飼い主である自分人間に尻尾を振るのを見て嫌だと思う感情に似ていて、何て傲慢なんだとイルカは思った。
俯いていた視線をそろそろと上げて、上忍師仲間と談笑しているカカシを見つめる。
以前のカカシなら、イルカがカカシに視線を向けると、それにすぐに気付いてニコニコと嬉しそうな笑みを見せていた。
多分、今のイルカの視線にもカカシは気付いている。
気付いているのだろうに、カカシはイルカに視線を向けようとはしない。イルカ以外の人間ににこやかな笑みを見せているのだ。
その事にツキン、ツキンと胸が痛んで、イルカが唇を噛んだその時だった。
カカシの隣に座っていた咥え煙草のアスマが、イルカの視線に気付いたのか、こちらに視線を向けてきた。
慌てて視線を逸らそうとしたら、そのアスマが、イルカから視線を逸らさないまま、隣のカカシを小突いて何か言った。
(あ・・・)
視線を向けてくれるかもと思った。
あの蒼い瞳を、真っ直ぐに見る事が出来るかもしれないと思った。
しかし。
それまで笑みを浮かべていたカカシが、イルカに視線を向ける事無くスッと表情を消してしまった。
それを見たイルカは、胸を襲った大きな痛みに、それでも、眉根を微かに寄せただけに留めた。
アスマが済まなそうな顔をしてイルカに視線を向けてくるから、それ以上顔を歪めるわけにはいかなかった。
カカシにはもう、嫌われてしまったのだろう。
泣きそうになるのを堪えて、酒を呷った。
「・・・飲み過ぎるなよ、イルカ。この酒、結構強いぞ?お前を介抱するなんてごめんだからな」
自棄になって酒を呷るイルカに、隣に座る同僚がそう声を掛けてきたが、
「お前も飲め」
イルカは呻るようにそう言って、その同僚にも無理矢理酒を勧めた。
酔っ払ってしまいたかった。
酔って、カカシに嫌われてしまっている、イルカの存在は無視されているという現状を忘れたかった。