正しい犬のしつけ方 15






同僚がそれほど酒に強くないという事を、イルカはすっかり忘れていた。
「・・・おぉーい、イルカぁー・・・」
呂律の回っていない声と同時に肩に乗る重みに顔を顰める。
「やめろよ、鬱陶しい」
イルカの肩に腕を回して体重を掛けている同僚は、イルカに付き合わされて飲まされて、ベロンベロンに酔っていた。
イルカも少し酔っていたが、意識はまだはっきりとしていて。
凭れかかってくる同僚の身体を押しのけながら、きゃあきゃあと黄色い歓声が上がる上座へ、チラと視線を向ける。
そこに座っているカカシが、上忍師やアカデミー教師の女性たちに囲まれて楽しそうにしているのを見て、イルカは胸がムカつくのを抑えられなかった。
先ほどから、カカシが女性たちの髪を一房取っては次々と嗅いでいるのだが、それもまた、イルカの神経を逆撫でしていた。
手に持った杯を再度呷る。
結局のところ、カカシは、いい匂いがする人間なら誰でもいいのだと思った。
イルカ以外でもいいのだ。
(俺じゃなくても・・・)
そう思ったら、怒りの後に悲しみが襲ってきた。
「・・・くそ・・・っ」
小さくそう呟いて、滲みそうになる涙を誤魔化すように酒を呷るイルカに、同僚が「イルカぁー」と再度凭れかかってくる。
「・・・よせって。しつこいぞお前」
この同僚、気はいい奴なのだが酒癖が相当悪い。酒に酔うと、しつこく絡んでくる。
今も、イルカの拒絶をものともせずに肩に顎を乗せた同僚が、イルカの視線の先を追った。
「さっきから誰を見てるのかと思ったら、はたけ上忍かぁ」
酔っているくせにそう鋭く指摘されて、イルカの身体がぴくりと微かに震えた。
「・・・お前に随分とベッタリだったのに、最近見ないなぁ。いいよなぁ、あんなに女に囲まれて匂いなんて嗅いじゃってさー。おれも嗅ぎてぇっ」
そう言った同僚が、イルカの耳元ですんすんと鼻を鳴らすのを聞いて、イルカは思いっきり眉を潜めた。
「俺を嗅ぐなッ、気持ち悪いッ」
そう怒鳴りながら、背中に張り付く同僚を引き剥がそうとしたイルカは、不意にその動きをピタリと止めた。
(あ、れ・・・?)
どうして気持ち悪いんだろうと思った。
カカシに嗅がれた時は、気持ち悪くなんてなかった。
イルカは、嗅がれただけで火照るような淫乱な身体ではなかったのだろうか。
(だって、カカシ先生に嗅がれた時はあんなに・・・)
と、そこまで考えてイルカは目を見開いた。
どうして、カカシに嗅がれた時にはあんなに身体が反応を返す。
カカシに、身体を求められてあんなに悲しかったのはどうしてだ。
カカシに避けられて淋しいと思ったのは何故だ。
「え・・・」
カカシが他の人間に愛想を振りまくのが嫌だと思う。
カカシが他の人間の匂いを嗅ぐのを見て、怒りや悲しみが湧き起こる。
それらは全て。
(もしかして・・・好き、なのか・・・?)
イルカが、カカシの事を好きだからに他ならないのではないだろうか。
そう自覚した途端、イルカの瞳にじわりと涙が浮かんだ。
まだ凭れかかっている同僚を引き剥がして、慌てて立ち上がる。
「お?どうしたー、イルカ」
「・・・トイレ」
震えそうになる声を叱咤してそう短く告げ、イルカはその場を後にした。
宴会場になっている座敷を出て通路を歩きながら、顔を腕で隠し、トイレに逃げ込む。
誰も居ないのを確認して個室の一つに入り、鍵を閉めると。
「・・・っふ・・・っ」
イルカは顔を腕に埋めて扉を背にずるずると蹲り、声を押し殺して、それまで我慢していた涙を零し始めた。
いつから好きになっていたのかは分からないが、今頃気付いてももう遅い。
カカシにはもう、イルカに視線を向ける事すら嫌がられるほどに嫌われてしまっている。
自覚した途端に、失恋が決定している。
(馬鹿だ俺・・・)
イルカの身体は、イルカよりも正直にカカシへと恋心を向けていたのに。
それに気付けなかった自分は、何て馬鹿だったんだろうと思った。
カカシが懐いてくれていた頃なら、この恋心を成就させることも出来たかもしれないのに。
(もう遅い・・・)
カカシの視線はもう、イルカに向けられることは無い。
イルカの閉じた目蓋の裏に、先ほどまで見ていた女性に囲まれたカカシの姿が映し出される。
途端に次から次へと零れる涙を何度も袖で拭うが、止まる気配はなかった。
これから先、カカシを拒絶したイルカは、今更ながらに気付いたカカシへの恋心を抱えたまま、カカシが女性と腕を組んで歩く姿も見なければならないのだ。
あの時。
カカシに無理矢理触られた時にこの恋心を自覚していれば、そんな所を見る事は無かったのかもしれない。
でも。
あの時のカカシはイルカの身体だけを求めていたのだから、どちらにしろ、イルカは拒絶していたように思う。
(どこで間違ったんだ・・・)
二人の関係は、どこで間違ってしまったのだろう。
「ふ・・・っ」
扉に背を預け、天井を仰いでそろそろと瞳を開けるイルカの頬を涙が幾筋も伝った。
ゆらゆらと涙で揺れる視界に、ぼんやりと灯りが入ってくる。
カカシとの思い出が甦り、後悔ばかりがイルカの胸に去来し、痛んだ。
カカシの端正な素顔に見惚れた。
あの蒼い瞳が淋しげに揺れる様に、イルカの胸は擽られた。
イルカに縋るような視線を向けてくるカカシが可愛いと思った。
嫌がっても、それでもイルカに懐いてくるカカシを嬉しいと思っていた。
アカデミーの中庭で一緒に弁当を食べるのが楽しかった。
イルカに触れる時に見せるカカシの卑猥な表情に欲情した。
(こんなに好きだったなんて・・・)
イルカは、こんなにもカカシの事が好きだったのだと今更ながらに思い知らされた。
瞳を閉じて、カカシの端正なのに可愛らしい表情を見せるその顔を思い浮かべてしまったイルカは、息を大きく吸い、ボロボロと涙の零れる顔を両手で覆った。
もう遅い。
もう遅いのだ。
カカシはもう、イルカの事なんて嫌いになってしまっている。
イルカはこんなにもカカシの事が好きなのに。
この想いはもう、カカシへ届くことは無い。
カカシの手はもう、イルカに伸ばされることは無いのだ。
ひっくひっくとしゃくりあげながら、それでも懸命に声を押し殺して泣いていた時。
「・・・イルカ先生」
「ッ!」
不意に聞こえてきた低いその声に、イルカはひゅっと息を呑んだ。ビクリと震えた身体が扉を揺らす。
「ここ、開けて」
そう言われたが、イルカはフルフルと首を振って拒絶した。扉の向こう側にいる声の主には見えないのに。
(何で・・・っ)
聞こえてきたそれは、怒りを抑えたようなカカシの声だった。