いつも同じ場所で 2






彼と仲良くなった。
と言っても、視線が合うと笑みを浮かべて少し頭を下げ合う程度だから、顔見知りと言ったほうが正しい。
初めは視線が合うたびにカカシが笑みを見せても、真っ赤になって俯いてしまうだけだった彼が、最近は、はにかむような笑みを向けてくれるようになった。
笑った彼は、それはそれはかわいくて。
はにかむような笑みだけでなく、満開の笑顔が見てみたいと思った。きっと花が綻ぶような笑みを、その顔に咲かせるに違いない。
(って、同じ男の笑顔を花に例えるってどうよ)
一種の職業病だろうか。
本をもう何冊読んだか知れないカカシの頭の中は最近、彼をどう文字で表現するかに占められていて。ああでもないこうでもないと、過去に読んだ文献や小説、さらには18禁の愛読書からまで引用しては、違う、こんな言葉では表現しきれていない、なんて事を繰り返している。
毎日の、通勤電車内で読書するという習慣が、それに変わってしまっているほど。
今だって。
ポールに凭れながら片手に持った本を目の前に広げてはいるが、読んではいない。
そうして考えているのは、少し離れたところから時々カカシへと視線を向けてくる彼の事ばかり。
彼を例えるならまず、太陽という言葉が思い浮かぶ。
ほんわかとした表情を見せる彼は、太陽の暖かさを思い起こさせるから。
花に例えるなら、白百合だ。
すっと伸びた背筋と普段の凛とした顔が、カカシと視線が合った途端、綻ぶように花開く様は百合のようで、甘い香りをカカシの胸に届けてくれる。
聖母マリアの象徴でもある白百合は、清楚な雰囲気のある彼にぴったりだと思う。
他にもいろんな言葉で例えてみてはいるのだが、彼の真っ直ぐな視線や、かわいらしい表情を例えるのに満足できる言葉は未だに見つかっていない。
それに、カカシはまだ彼の名前も、声すらも知らないのだ。彼の一部分しか知らないのに、彼を表現出来るわけが無い。
知りたいと思う。
彼がどんな声をしているのか、何という名前なのか。
それに、他のいろんな表情も見てみたい。
もっと近づきたい。
自分のそんな欲望に耐え切れなくなったカカシはある日、思い切って行動を起こした。


電車の中は、今日も混雑している。
いつもの車両に乗り込んだカカシはその日、毎日の定位置になっていたポールの側には行かず、つり革に掴まった。
そこは、いつも彼が掴んでいるつり革のすぐ近く。
彼は二駅後から乗り込んでくるからまだいない。
少しどきどきしながら、窓の外で次々と流れていく景色を眺める。
いつもと同じ風景なのに、彼が乗り込んでくる駅までが例えようもなく長く感じた。
ゆっくりと電車が減速し始めて、やっと彼が乗り込んでくる駅に到着する事を、車内アナウンスが知らせてくる。
と、そこでカカシは、はたと気づいた。
もしかしたら、自分がここにいると分かったら、彼はここに来ないかもしれない。
どうしていつもの場所ではなくここにいるのだろうかと、不審に思うかもしれない。
彼が自分を避けるように別の場所に行ってしまったらどうしよう。
(ちょっと立ち直れないかも・・・)
電車が止まって、背後でぷしゅうと音をたててドアが開き、大量の人が降り大量の人が乗り込んでくる気配がする。
振り返り、彼を探したい気持ちはあるのだが、ドア付近で視線が合ったのに、避けるように別の場所へ行かれてしまったらと、そう考えると怖くて。
カカシは、つり革を掴んだ手に額を当て、頑なに窓の外を眺め続けた。
(あ)
視界の隅に、日に焼けた手が隣のつり革を掴むのが映る。男の手だ。
彼、かもしれない。
高鳴る自分の心臓の音を聞きながら、ちらと横を見たそこには。
カカシのすぐ隣で顔を真っ赤にさせて俯く彼が、いた。
胸が痛い。
心臓が、鳴り過ぎて。
「おはよう、・・・ござい、ます」
小さく、彼に聞こえる程度の大きさでそう声をかけてから、何て声だと思った。
いくらなんでも緊張し過ぎだろう。
これでは、彼に変な人だと思われてしまう。
でも、カカシのそんな挨拶に、俯いていた彼がまだ赤く染まっている顔を少しだけ上げて、いつものようにカカシに真っ直ぐ視線を合わせた。
その瞳に吸い込まれそうになる。
「・・・おはよう、ございます」
小さかったけれど、彼もそう挨拶を返してくれた。
彼がここに来てくれた事と、彼の声が聞けた事、それに至近距離で彼の瞳が見られた事がとても嬉しくて。
相変わらず痛む胸が、今度は幸せな疼きに包まれていく。
(あぁ、そうか)
その疼きが一気に体全体に拡がった時、カカシは唐突に理解した。
自分は彼が好きなのだと。
彼の事がこんなに知りたいのも、彼に視線を向けられるのが楽しみなのも。彼がこんなにもかわいく見えてしまうのも。
きっと、この真っ直ぐな瞳を見た瞬間、恋に落ちてしまったから。
”一目惚れ”なんて、された事はあってもした事のなかったカカシは、今の今まで気づけなかった。
でも、そう自覚してしまえば、彼がとても愛おしく思えて。
カカシの顔に自然と笑みが浮かぶ。すると、彼がさらに真っ赤になってしまった。
(名前、知りたい)
彼の名を、呼びたい。
それはどんなに甘美な綴りだろう。きっと、今まで読んだ本のどのフレーズよりも、カカシの胸を打つに違いない。
「あの、名前・・・」
聞いてもいいですか?
と、カカシがそう続ける前に、彼の口から、
「はたけ先生、ですよね・・・?」
と自分の名前が出てきて驚いた。
どうしてカカシの名前を知っているのか。
知り合い、ではなかったはずだ。
記憶力はいい方だから、一度でも会った人なら名前は忘れても顔は覚えているはず。
しかも、一目で恋に落ちるほど、こんなに綺麗な瞳をした人を忘れるなんて事はありえない。
「・・・失礼ですが、以前どこかでお会いしましたか?」
もし忘れているのなら、彼にかなり失礼だし、忘れてしまった自分を罵ってやりたい。
過去に知り合っていたのに、何も感じず、すっかり忘れてしまっていた自分を。
だが、おそるおそるそう訊ねたカカシに、彼は焦った表情を浮かべた。
「あ!すみません、直接お会いした事は無いです。数年前に一度だけ、木の葉大学の大ホールで、はたけ先生の講義を受けた事があって・・・」
木の葉大学は、カカシの職場だ。
その大ホールでは何度も講義をしているし、200人以上は入る大きいホールだから、彼がその中にいたとしても見つけられないだろう。
忘れるなんて失礼な事をしていなかったと分かり、ホッとする。
しかし、彼がそこにいたという事は学生なのだろうか。
いつも、スーツではないが社会人らしい格好とその落ち着いた雰囲気に、カカシと同じくらいの年齢だろうと思っていたのだが。
「じゃあ、うちの学生さん?」
「あ、違います。えっと、俺、木の葉大学付属小学校で教員をしております、うみのイルカといいます」
付属小学校の教員と聞いて思い出した。
数年前に一度だけ、カカシの講義を大学付属の小学校と中学校の教員が、新任研修の為に聞きに来た事を。
「あぁ、じゃあ、夏目漱石の講義を聞きに来られたんですね」
「はい、そうです!はたけ先生の講義、凄く興味深く聞かせて頂きました。俺、本が好きで夏目漱石も読んだんですけど、あんな切り口で解説されていたのがとても新鮮で・・・」
彼が、イルカが、カカシの講義の内容について一生懸命に語りだす。
そのきらきらとした表情に、そして、イルカが数年前、たった一度だけ受けたカカシの講義の内容を、逐一覚えている事に嬉しくなってしまう。
相槌を打ちながらにこにこと笑みを浮かべていたら、イルカがハッとしたように口を噤んだ。
「・・・すみません。初対面なのに俺ばっかり喋って・・・」
「ん?いや、嬉しいですよ?そんなに反応を返してくれるなんて、うちの学生でもそうそういないからね。オレの講義、寝るには最適だって言われてるから」
頑張って喋ってるのに、悲しいよねぇ。
はぁとわざとらしく溜息をついてそう言ってみれば、イルカがおかしそうに笑ってくれた。