いつも同じ場所で 3 いつものポールに凭れて電車に揺られながら、カカシはまた欠伸をかみ殺していた。 昨夜も遅くまで本を読んでいたから、今朝は危うくいつものこの電車に乗り遅れるところだった。 この電車に乗れなかったらイルカに会えない。 木の葉大学と付属小学校は、一駅分離れているから偶然会うなんて可能性は無い。 帰りも、遅くまで図書館で文献を漁っているカカシと小学校教諭のイルカとでは、たまたま電車で一緒になるなんて事はないだろう。 だから、この電車で過ごすたった数十分が、カカシにとっては何物にも換えがたい大切な時間になっている。 電車が減速を始め、車内アナウンスがイルカの乗り込んでくる駅を告げる。 止まった車両がドアを開けて、人を吐き出し、飲み込む。 「イルカ先生」 その中に、少し息を乱したイルカの姿を見つけたカカシが声をかけると、カカシに気づいたイルカが笑みを浮かべた。 「おはようございます。カカシ先生」 「ん。おはよ」 やはり『はたけ先生』よりもこちらの方がいい。 イルカと話すようになってすぐ、カカシと呼んで欲しいとお願いした。自分が『イルカ先生』と呼びたかったから。 教員同士なのだから、『さん』でもいいとは思ったのだが。 初め、カカシが『イルカ先生』と呼んだ時、イルカが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑みを浮かべてくれたから。それ以来、お互い『先生』と呼び合っている。 イルカの名を舌に乗せると、甘美な響きをカカシの耳にもたらし、ほっこりと胸が温かくなる。 そしてそれは、自分の名をイルカが呼んでも同様で。 恋というのは、その人に関するもの全てが愛おしくなってしまうものなんだなと、この年になって初めて知った。 カカシの側に来てドアに凭れたイルカが、鞄を漁って本を取り出す。カカシが昨日、面白いからと言って貸した本だ。 結構な厚みがあるのだが、もう読んでしまったのだろうか。 「これ、ありがとうございました。凄く面白かったです。昨夜一気に読んじゃって、今朝危うく寝過ごすところでした」 本を受け取りながら、カカシと同じような理由で、同じく寝過ごしてしまいそうになったと、苦笑しながら言うイルカに笑みが浮かぶ。 乗り込んできた時少しだけ息が上がっていたのは、この電車に乗るために走ってきたからなのだろう。 数分後にも電車はあるというのに、わざわざ走ってくれたという事は、カカシと同じくイルカも、この時間が大切だと思ってくれているのだろうか。 「特に、主人公が言った台詞が印象的でした」 「あぁ、あれでしょ?『毎朝、同じところでいつも出会うあなたを、私はずっと気になって仕方がなかった』」 本の中で主人公が愛する人へと告げる台詞を言うと、「そう!それです!」とイルカが笑みを浮かべてさらに感想を述べ始める。 それに相槌を打ちながら、カカシはイルカの造詣の深さに感嘆していた。 恐らくイルカは相当な数の本を読んでいるに違いない。本が好きだと言っていたのは本当なのだろう。 感想一つ取っても、たった一晩でそのまま論文が一本書けそうなほど読み込んでいて。 他書も引用する辺り、研究室にいる学生たちよりも優秀だった。 そんなイルカとの、打てば響くような知識のやり取りが、とても楽しかった。 電車での数十分では足りないと思うほど。 イルカと話すようになってすぐ、夏休みが訪れた。 と言っても、長期間の夏休みが与えられるのは学生ばかりで、教員には夏休みも関係なく仕事はある。 毎年、長期間の自由な時間が与えられる学生が羨ましいと思っていたカカシだったが、今年初めて、夏休みがなくて良かったと思った。同じ教員であるイルカも、夏休みも関係なく出勤するからだ。 変わらずイルカに会える。 その事が、カカシには夏休みを貰える事よりも嬉しい事に思えた。 今日も、駅に到着した電車のドアが開き、イルカが乗り込んでくる。蒸し暑い空気も一緒に入ってきて、車内エアコンで冷やされていたカカシの体にうっとおしく纏わりついた。 「おはようございます、カカシ先生」 「おはよー」 ちょっとぐったりした声になってしまっているのは、ここ最近の暑さにすっかり夏バテしてしまっているからだ。 冷たいポールに寄りかかり懐いているカカシに、イルカが心配そうに声をかけてくる。 「もしかして、夏バテ・・・ですか?」 「んー・・・そう。すっかり夏バテしちゃって」 「それじゃあ、食欲もないとか?」 「んー。自炊する元気がなくて」 ははと力なく笑ったカカシに、イルカが眉を顰めた。 「ちゃんと食べないと駄目ですよ。顔色が悪いですし」 体力つけないと、倒れちゃいますよ? そう言われて、カカシは少しだけ体のだるさが減った気がした。 イルカが心配してくれている。 それが嬉しい。 たったそれだけで、幸せになってしまう自分に苦笑していると、イルカが夏バテも吹き飛びそうな程驚く事を言った。 「俺、作りましょうか?」 「へ?」 変な声が出てしまった。 多分、顔も呆けたような変な顔になってしまっているはずだ。 そんなカカシを気にせずイルカが続ける。 「朝は時間的に厳しいから無理ですけど、夕飯くらいなら。今なら夏休みで残業がないので定時に上がれますし。お昼は学食があるから大丈夫ですよね?」 俺の家でいいですか? そう聞かれても、咄嗟に答えられなかった。 喜びと、そして、ほんの少しの切なさに。 カカシの為にイルカがわざわざ手料理を作ってくれる。しかも、イルカの家に呼んでくれたのは凄く嬉しい。 イルカとの距離が今以上に近くなるのは確かだから。 でも、それをいつもと全く変わらない表情で言うイルカに切なくなった。 多分、イルカは友人を家に呼ぶように、気軽な気持ちで言っている。 その言葉と表情から、カカシを心配する気持ちは随所に感じ取れるが、カカシへの想いなんて少しも感じ取れなくて。 カカシには、それが少し切なかった。 報われない恋だとは自覚している。 男同士だし、電車の中でしか二人は会った事がないのだ。付属小学校で教員をしていて、本が好きだという事以外、カカシはイルカの事を何も知らないし、イルカだってカカシのプライベートな事を何一つ、聞いてきた事が無い。 今の、本の貸し借りをする仲くらいで満足しなければならないのに。 もっともっとと、貪欲にイルカを求める自分が怖い。 イルカと話すようになる前までは、イルカが視線を向けてくれるのは、もしかしたら好意からかもしれないなんて思っていた。 でも、イルカがカカシを見ていたのはきっと、以前に興味深い講義を聞いた事があったからで。 恐らく、カカシではなく、カカシの読んでいる本に興味があったのだろうと思う。 話すようになってすぐに、イルカ本人から「いつも面白そうな本を読んでいらっしゃいますよね」と言われたから。 今では本がイルカとの仲を繋ぐ唯一の物だから感謝しているが、その時ばかりは大好きな本にみっともなく嫉妬した。イルカに興味を持ってもらえる本が羨ましくて。 本だけでなく、カカシにも興味を持って欲しい。 カカシはこんなにもイルカの事を知りたいと思っているのに。 恋とは、好きな人から幸せを貰うが、切なさも貰うんだな、なんて。 カカシは、イルカに「行ってもいいの?」と嬉しさを表情に出して言いながら、胸を覆う切なさに、心の中でほんの少しだけ涙した。 |
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