幸せな時をいつまでも 3






そうじゃないとはどういう意味だろうか。イルカを見つめるカカシの首が小さく傾ぐ。
「え・・・?」
「そうじゃなくて、その・・・」
言い澱むイルカが、その顔を俯かせる。そうして告げられたのは、イルカがカカシに触れられるのを躊躇う本当の理由だった。
「・・・背中に、大きな傷跡があるんです・・・」
苦しそうにそう言ったイルカが、膝の上で組んだ両手をぎゅっと握り締め、その眉根をきつく寄せる。
「この傷は俺の誇りであり戒めです。疎ましいと思った事は一度もありません」
震える声で、だが、はっきりとそう告げたイルカの漆黒の瞳が切なく眇められる。
「・・・でも、これをカカシ先生に見られるのは怖い・・・っ。ただでさえ、女の人みたいに華奢でも柔らかくもないのに、俺・・・っ」
そう言いながら、くしゃりと顔を歪めるイルカを見たカカシは、堪らずその身体を抱き寄せていた。
イルカは、カカシに触れられるのが怖かったのではなく、イルカの傷のある男の身体を見たカカシが、離れていくのではと怖かったのだろう。
(そんな事・・・)
暖かいイルカの身体を抱き締め、深蒼の瞳を切なく眇めるカカシの口元に、ふと小さく苦笑が浮かぶ。
「・・・あのね、イルカ先生」
耳元で告げるこの声が。
イルカが好きだと言ってくれたこの声が、イルカの耳に優しく届いているといい。
不安を感じる必要なんて無いのだ。
カカシがイルカから離れていく事なんて決して無い。
性別なんて関係ない。イルカの身体に傷があっても、カカシは嫌いになったりしない。
カカシは、毎朝乗るあの電車で、鼻頭に傷のあるイルカという男性に一目惚れしたのだから。
抱き締めていたイルカの身体をそっと離したカカシは、イルカの潤んでいる漆黒の瞳に苦笑を深めながら、その鼻頭にある傷へゆっくりと指先を伸ばした。
「あなたが男だっていう事は最初から知ってるし、あなたの顔にあるこの傷跡だってオレは大好きなんですよ?」
イルカの顔に大きく横一文字に走る傷。
この傷があっても、カカシはイルカの事が可愛いと思ったのだ。
イルカが見せたくないという背中の傷跡だって、カカシにはもう、イルカを愛しいと思う要因の一つにしかならない。
「オレは、鼻頭に傷のあるどこからどう見ても男のあなたを、ひと目で好きになったんです」
言いながら、鼻頭の傷を撫でていた手をその頬にそっと滑らせたカカシは、イルカを見つめるその瞳に夜の淫猥な雰囲気を纏わせた。
「・・・っ」
それに気付いたらしいイルカが、小さく息を呑み、その身体を僅かに震わせる。
艶やかな黒髪を常に高く結っているイルカの耳元は無防備だ。
「・・・オレに触られるのはイヤ・・・?」
その無防備な耳元を指先で撫でながら訊ねてみると、ピクンと身体を反応させたイルカの頬が、かぁと羞恥に染まった。
見つめるカカシから恥ずかしそうに視線を逸らすイルカが、小さく首を振ってくれる。
そんな可愛らしいイルカにふと小さく笑みを浮かべながら、カカシはさらに、今度は少々意地の悪い質問をした。
「・・・オレに抱かれるのは・・・?」
「・・・っ」
殊更潜めた低い声で告げたのは、抱かせて欲しいというカカシの願い。
それを聞いたイルカが、顔どころか首筋の辺りまで真っ赤に染める。
すぐじゃなくてもいいなどと思っていたが、撤回しなければならないだろう。
こんなにも可愛らしい恋人を目の前にして、我慢出来る男なんて居たらお目に掛かりたい。
そろそろ終電の時間だとか、二人とも明日も仕事があるとか。
「嫌・・・じゃない、です・・・」
週末まで待った方がいいと、カカシの頭の片隅でそう訴えていた理性は、聞こえてきたイルカの小さなその声で掻き消えた。




夜半を過ぎ、一層静かになったイルカの部屋に水音が微かに響いてきている。
イルカとは同じくらいの体格だと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
借りたイルカのパジャマは、袖口が少しだけ短かった。
初めて知ったその事実に、ふと小さく笑みを浮かべながらベッドに腰掛け、肩に掛けていたタオルで銀髪を拭くカカシから大きな溜息が零れ落ちる。
(・・・緊張してる・・・)
耳に聞こえて来ているシャワーの水音が、カカシの胸をより一層騒ぎ立てている。
情事を前にしたカカシが、こんなにも緊張するなんて初めての事だ。
男性を相手にするのが初めてだから、というのもあるのだろうが、何より、一目惚れした程に好きな相手を抱くのが初めてだからなのだろう。
これまでの経験が、全く役に立ちそうにも無くて小さく笑ってしまう。
せめてシャワーをとイルカに請われ、それを了承しておいて良かった。
あのままイルカに手を伸ばしていたら、触れる手が震えるなんて情け無い事態に陥っていたかもしれない。
髪を拭き終えたタオルを再び肩に掛ける。
そうしたところで、シャワーの水音が早くも止まった。程なくして、カカシと色違いのパジャマを身に纏ったイルカが、濡れた髪を拭きながら風呂場へと続いている扉から出てきた。その姿を見たカカシの瞳が僅かに見開かれる。
イルカが艶やかな黒髪を下ろしている。
黒髪を結っていないその姿をカカシが見たのはこれが初めてだ。可愛らしくも色気のあるその姿を見るカカシの口元に、ふと小さく笑みが浮かぶ。
付き合って数ヶ月になるが、まだまだカカシの知らない事がたくさんあるのだろう。
「・・・髪、下ろしてるところ初めて見た」
緊張しているのか、髪を拭き終えてもベッドに腰掛けるカカシに近付こうとしないイルカにそう声を掛けると、それまで足元に向けられていたイルカの視線が、おずおずとカカシの姿を捉えた。
怖がらせないよう柔らかな笑みを浮かべ、そっと手を差し伸べる。
「おいで、イルカ先生」
「・・・はい・・・」
呼び寄せると、素直に頷いたイルカがゆっくりと近付いてくる。
差し伸ばしていたカカシの手に乗せられたイルカの手。それをそっと引いたカカシは、イルカをベッドへと座らせた。
カカシに身体を見られるのは怖いと言っていたイルカだ。まだ怖いのか、僅かに俯くその身体が強張っているのが分かる。
そんなイルカにふと小さく苦笑したカカシは、イルカの顔をそっと覗き込んだ。大丈夫だからと安心させるように、不安そうに揺れるその瞳を真っ直ぐに見つめる。
そうしてカカシが告げたのは、イルカを最も不安にさせるだろう事だった。