明けぬ夜 7 テント内に張られた結界に、澄んだ音色が閉じ込められている。 水浴びからの帰り道。イルカと話をしている際、イルカがあの横笛を持っていると知ったカカシは、是非ともそれを聞かせて欲しいとイルカに強請った。 カカシのその強請りに、恥ずかしそうにしながらも快く応じてくれたイルカと共にテントに戻ってすぐ。久しぶりだからと、そう前置きして始められたイルカの演奏は、だが、一年ほど前に聞かせてもらった音色と少しも遜色ないように思えた。 ベッドに腰掛け耳を澄ませるカカシから、小さく感嘆の溜息が零れ落ちる。 (勿体無いな・・・) 狭い空間に閉じ込められ、拡がっていく事のない音が勿体無い。 テント中央に立ち、少し視線を伏せたイルカの真剣なその表情を見ていると、一年前のあの日の事がカカシの脳裏に浮かぶ。 大蛇丸による木の葉崩しで里が壊滅的な打撃を受ける前、夏祭りの日にあの神社で行われた神事を、カカシは少しだけ見に行っていた。 イルカと中忍選抜試験の事で言い争いをした後、子供たちが最後の試験に向けて修行に励んでいた頃の話だ。 サスケとの修行を抜け出したカカシは、ケヤキの太い枝の上に降り立ち、その下で行われていた神事を見守った。 夜闇の中、焚かれた篝火に浮かび上がる舞台の上。真っ白な衣装を身に纏い、手にした笛を奏でるイルカの敬虔なその姿に、カカシの視線は囚われ逸らす事が出来なくなった。 神事は神への祈りだ。里が平和でありますようにと願っているのだろうイルカが奏でる澄んだ音色は、里が平和であるようにと人を数知れず殺めてきたカカシの魂を揺さぶった。 ―――赦してもらえるだろうか。 イルカと舞手が織り成す厳かな神事を見下ろしながら、カカシは祈るようにそう思った。 それまで赦されたいと思ったことなど一度も無かった。そう思ってはいけないのだと思っていた。 そんなカカシが、生まれて初めて赦されたいと思った。イルカの奏でる笛の音に、心が洗われていくのを赦して欲しいと願った。 イルカは、カカシを救ってくれた。その澄んだ笛の音で、その暖かな笑みで。その優しい心でカカシを救ってくれる愛しくて大切な存在―――。 笛の音が静かに消えていき、イルカの伏せられていた視線が上がる。掲げられていた笛がゆっくりと下ろされる。 「・・・ありがと」 カカシへと向けられるその漆黒の瞳を見つめながら、カカシは小さく笑みを浮かべた。演奏を聞かせてくれた礼を告げる。 それを聞いたイルカの瞳が柔らかさを増し、その顔にふわりと笑みが浮かぶ。暖かなその笑みは、向けられたカカシの胸までほんのりと暖かくしてくれた。 「いえ。随分と吹いていませんでしたから、お耳汚しで失礼しました」 そう言ったイルカが、恥ずかしそうに鼻頭の傷を掻く。 以前にもそう謙遜されたなと小さく苦笑するカカシの脳裏に、あの日、舞台の袖でイルカを見上げていた子供たちの後姿が思い浮かぶ。 (そういえば・・・) ふと思い出した。 カカシはまだ、イルカにあの中忍選抜試験の時の一件を謝っていない事に。 「・・・イルカ先生、ココ座って?」 自らが腰掛けるベッドをポンポンと叩いたカカシは、そう言って、立ったままのイルカにベッドへと座るよう促した。小さく首を傾げたイルカが、言われるがままカカシの隣に腰掛ける。 そんなイルカにカカシは真摯な眼差しを向けた。 「・・・ゴメンね、イルカ先生」 「え・・・?」 唐突にそう謝罪するカカシに、イルカが不思議そうな表情を向けてくる。そんなイルカから視線を逸らしたカカシは、膝の上で組んだ手にその視線を落とした。 イルカは許してくれているだろうか。あの時、必要以上に厳しい言葉でイルカを傷付けてしまったカカシの事を。 「中忍選抜試験に子供たちを推薦した時、オレはあなたにキツイ事を・・・」 「あれは・・・っ」 カカシの言葉をイルカが遮る。少し俯いているカカシの視界に慌てた様子で入ってくる。 「あれは、俺が先に酷い事を言ったんです・・・っ。それに、カカシさんは何一つ間違った事は言ってません!」 そう言ったイルカが、その顔を今にも泣き出しそうな程に歪ませる。それに気付いたカカシは、その瞳を驚きに見開いていた。 もしかして同じなのだろうか。 イルカも、カカシと同じくあの日の事をずっと悔やんでいたのだろうか。 「・・・謝らないで下さい。謝らなきゃいけないのは俺の方です・・・」 カカシから視線を逸らしたイルカが、小さな声でそう言いながら俯く。 「・・・すみませんでした」 そうして、その手にしている笛をきつく握り締めながら告げられた謝罪の言葉は、少し掠れ震えていた。カカシの口元にふと小さく苦笑が浮かぶ。 「・・・やっぱりオレも謝らなきゃ」 「え・・・?」 イルカがおずおずと顔を上げる。ゆっくりと片手を上げたカカシは、その手をイルカの頬に伸ばした。その頬に触れる直前、触れてもいいものだろうかと躊躇う。 だが、イルカはカカシに触れられると気付いているだろうに、嫌がる素振りを見せなかった。そんなイルカを見つめる瞳を愛しさから眇めながら、指の背で暖かい頬をそっと擽る。 「・・・大切なあなたにこんな顔をさせて。恋人失格でしょ?」 本心と冗談を交え、カカシはイルカに小さく笑みを浮かべて見せた。それを聞いたイルカが、ふと小さく笑ってくれる。 あの夏祭りの日。カカシはイルカの前に顔を出す事が出来なかった。 神々の前で笛を奏でるイルカの姿は清浄さを纏っており、そんなイルカの前に姿を晒す事にカカシは躊躇いを感じてしまったのだ。 あの時イルカに会って話をしていたなら、イルカにこんな顔をさせずに済んだのかもしれない。 「もっと早くあなたと話しておけば良かった。・・・ゴメンね?」 再度そう謝ると、イルカは優しい笑みを浮かべ、ふるふると首を振ってくれた。そんな心優しいイルカが愛おしい。 カカシはふと笑みを浮かべて見せると、「そろそろ寝ましょうか」と、腰掛けていたベッドから立ち上がった。イルカが思うまま吹けるようにと張っていた結界を解き、灯りを消そうと机に歩み寄る。 あの日の事をきちんと謝る事が出来て良かった。イルカに少し近付けたようで嬉しい。 それに、今日はイルカの笛も聞けた。 イルカの笛を独占して聞ける日が来ようとは思ってもいなかった。 また聞かせて欲しい。本物の恋人ならいつでも聞く事が出来るのだろう笛の音。それを独占している時間は、イルカの本物の恋人になったようで堪らなく幸せだった。 灯りを消し、背後でベストを脱いでいるイルカを振り返る。 「・・・イルカ先生」 「はい」 「笛、また聞かせてくれる?」 カカシがそう願うと、イルカは嬉しそうな笑みを浮かべ「はい」と頷いてくれた。 朝日が昇り始めたのだろう。テント内がゆっくりと明るくなってくる。 (もう朝か・・・) それに気付いたカカシは内心溜息を吐いていた。夜のなんと短い事か。イルカの恋人で居られる時間が終わるこの瞬間が堪らなく淋しい。 今日は城を一つ落としに行かなければならないと分かっている。集合の時刻まであまり間がない事も分かっている。けれど。 「ん・・・」 腕の中に捕らえていたイルカの身体を解放しようとした途端、無意識だろう。それを嫌がるようにむずかる仕草を見せるイルカに、カカシは離れ難くなってしまった。 カカシの腕を抱き込んで眠るイルカを見つめたまま、しばらくの間どうしようかと躊躇う。 駄目だと分かっている。イルカは恋人ではない。そんな事は嫌という程に分かっている。けれど。 (・・・ゴメンね、イルカ先生) カカシは、安心し切ったように眠るイルカが見せる可愛らしさに、口付けたい衝動をどうしても抑える事が出来なかった。 色んな意味を込めた謝罪の言葉を心の中で告げながら、辛うじてその額にそっと口付けを落とす。抱き込まれている腕をゆっくりと引き剥がす。 そうしてカカシは、激しい罪悪感と共にイルカが眠るベッドを抜け出した。 |
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