明けぬ夜 8






八月も終わりに近付くと、夕刻になれば涼やかな風が吹くようになってきた。
残暑はまだまだ厳しいが、秋はすぐそこまで近付いて来ているのだろう。山に自生するススキが、あちらこちらで穂を出し始めている。
そのススキを眺めながら戦地から本陣へと戻ったカカシは、まずは飲み水を貰おうと、小さく溜息を吐きながら湧き水のある炊飯所へと向かっていた。
(疲れた・・・)
それほど難しくない城攻めだったのにも関わらず少々疲れを感じているのは、この任務が長引いている事と、寝不足が続いているせいだろう。
あの城の攻略法を、カカシはまだ見つけられずにいる。偵察に向かわせている者たちの報告次第では、強行突破も視野に入れた方がいいのかもしれない。
敵だけでなく味方も無事では済まないだろう強硬手段は出来れば取りたくないが、カカシには、この任務にあまり時間を掛けていられない理由が出来ていた。
イルカを伽から守るために偽りの恋人になって貰ったのにも関わらず、最近のカカシはイルカに対する情欲を抑えるのに、かなりの忍耐を要するようになってきている。
いつイルカに襲い掛かるか自分でも分からない状態だ。
そんな自分をイルカから遠ざけた方がいいとは思うが、それでもカカシは、イルカに恋人役を降りてもらうわけにはいかなくなっていた。
カカシの恋人だと周知の事実になってからというもの、イルカに興味を持つ人間が多くなって来たのだ。
イルカを守りたい。
カカシのそんな想いから始まった偽りの恋人関係は、イルカを守るどころか、より危険に晒す事になってしまっていた。
この任務を早く終わらせなければ。
でなければ、狂おしい程になっているこの恋心を、いつまで経ってもイルカに伝える事が出来ない。
イルカを想うだけで激しく痛む胸に僅かに眉を顰めながら炊飯所を通り過ぎ、水が湧き出ている岩場へと向かっていたカカシの瞳が不意に和らぐ。
愛しいイルカの気配がその先にある。
それに気付いたカカシの口布に隠されたその口元に、続いて、ふと小さく苦笑が浮かんだ。
イルカの気配を感じただけで、それまでの疲れや胸の痛みがどこかへ吹き飛んでしまった。
これだからイルカの側を離れる事が出来ない。
恋心を伝える事が出来ず苦しいくせに、それでもイルカの側に居たいと思うのは、イルカが穏やかな時を与えてくれるからだろう。
自然と早くなる自分の足に苦笑を深めながら、イルカが居る岩場へと急いでいたカカシは、だが、愛しいその姿を見る前にふとその足を止めていた。
イルカの他にもう一人そこに居る事に気付いたからだ。木の陰に隠れ、水音が絶えない岩場をそっと伺い見る。
大きな背を丸め、岩場から湧き出る水で米を洗っているその男性は、イルカよりもだいぶ年上に思えたが、仲が良さそうな所を見ると炊飯部の人間だろうか。
それにしては気配を消すのが随分と上手い。
カカシがこんなに近付くまでその気配に気付けなかったくらいだ。もしかすると、怪我などで一線を退いた人物なのかもしれない。
その男性と時折笑い合っているイルカに声を掛けず、咄嗟に木の陰に隠れてしまったのは、二人の会話がカカシに関する事だったからだ。
からかわれでもしたのか、イルカの顔が真っ赤に染まっている。
少し離れた場所で聞き耳を立てているカカシに届く、そんなイルカの少し照れたような声。
「・・・はい。カカシさんには凄く大切にして貰ってます」
「・・・おまえな。惚気るのも大概にしろよ?」
呆れたような口調でそう言われたイルカが、鼻頭の傷を掻きながら恥ずかしそうに俯く。そうして浮かべたイルカの小さなその笑みは、どこか嬉しそうに思えた。
(え・・・?)
カカシの胸がドクンと高鳴る。ゆっくりと片手を上げ、今にも叫び出しそうになる口元をその掌で覆うカカシの身体が小さく震え始める。
自惚れてもいいのだろうか。
イルカもカカシに好意を持ってくれていると自惚れてもいいだろうか。
背後にある太い木の幹にその身体をそっと預け、木々の合間に覗く夕焼け空を見上げる。ゆっくりと息を吐き出し、歓喜に溢れ出しそうになる恋心を落ち着けさせる。そうして。
「・・・楽しそうですね。何の話?」
平常心を取り戻しゆっくりと木の陰から出たカカシは、その顔に笑みを浮かべ、楽しそうに会話している二人の背中へとそう声を掛けた。




イルカとこうして狭い簡易ベッドで共に寝るのは、もう何度目になるだろうか。
暗闇の中。ベッドに身体を横たえたカカシは、その腕をイルカへとそっと差し伸ばした。その腕の中に当然の如く収まってくるイルカが愛しい。カカシはその口元を少し緩めながら、暖かいその身体をより引き寄せた。
カカシの腕の中に囚われる事にすっかり慣れてしまったらしいイルカが、至近距離からじっと見つめてくる。
「ん・・・?」
それに気付いたカカシが小さく笑みを浮かべて見せると、イルカの暖かい手がカカシの頬にそっと触れた。疲れと寝不足からだろう。少しかさついているカカシの肌を、イルカの指が優しく撫でていく。
「少し疲れてるんじゃないですか・・・?」
心配そうな顔と声でイルカにそう訊ねられたカカシは、嬉しさからその深蒼の瞳をふと和らげていた。
「・・・大丈夫ですよ」
イルカの身体を引き寄せ、その額にそっと口付ける。
「心配してくれて・・・」
ありがと、という感謝の言葉をカカシは続ける事が出来なかった。
驚愕にだろう。その漆黒の瞳を大きく見開いたイルカがそこに居る。カカシを見つめたまま、イルカの手が自らの額へゆっくりと伸びていく。
それを見て、カカシはようやく気付いた。イルカの額に口付けてしまった事を。
(・・・ッ、オレは何を・・・!)
カカシの胸が激しく鳴る。
眠るイルカに隠れ、その額に口付けるのが習慣になってしまっていたのが仇になった。
心配そうな表情で見つめてくるイルカが可愛らしくて、つい口付けてしまっていた。
口付けてしまった自分を今すぐにでも消してやりたい所だが、イルカに口付けたという事実は消えてはくれない。
どう言い訳するとカカシが逡巡していると、そんなカカシから視線を逸らしたイルカが、その顔を真っ赤にさせながら俯いた。
その仕草を見たカカシの胸が期待にざわめき始める。夕刻に見たイルカの嬉しそうな笑みが思い浮かぶ。
もしかしたら、受け入れてくれるかもしれない。口付けの理由を誤魔化さなくてもいいのかもしれない。
「・・・イヤだった?」
不安と期待を胸に抱えたカカシの小さなその問いに、イルカがふるふると小さく首を振る。
イルカと共に過ごすようになって初めて、カカシにはっきりと示されたイルカの好意。
それを見たカカシの高鳴っていた心臓が一瞬鼓動を止める。心の奥底に封じ込めていた恋心が一気に溢れ出す。
「・・・イルカ先生」
カカシの呼び掛けに、イルカがおずおずと顔を上げる。
恥ずかしそうなその仕草を見てさらに溢れ出したカカシの恋心は、もう止まる事を知らなかった。
イルカの漆黒の瞳と視線が合ったその瞬間。
「ん・・・ッ」
カカシはイルカの暖かいその唇に、堪らず口付けていた。