明けぬ夜 10






澄んだ夜空に細い月が輝いている。
山頂の一際大きな木の頂上。そこに降り立ち、涼やかな風に吹かれながら頭上で輝く月を見上げていたカカシは、その視線を遠くへと馳せた。
連なる山々の一角。篝火が焚かれているのだろう。あの大きな城が、月明かりの乏しい夜の闇に浮かび上がっている。
それを眺めながら、小さく溜息を吐く。
夜が堪らなく長く感じるのは、イルカという存在を失ってしまったからなのだろうか。
あの夜以来、カカシはイルカと顔を合わせていない。
イルカはあれからも変わらずカカシのテントにやってきて、恋人役を続けてくれているようだったが、カカシは自テントに寄り付かなくなっていた。
あんな事をしたカカシに、イルカは会いたくはないだろう。それに、前のように一緒に眠るなんて出来るはずが無かった。
イルカの寝顔を見ているだけで幸せだったあの頃にはもう戻れない。
小さく溜息を吐きながら再び空を見上げていたカカシは、ふと何かに気付き、その視線を眼下の森へと向けた。微かだが、聞き慣れた音が聞こえた気がしたのだ。
だが、風の音とそれに乗って聞こえてくる虫たちの声で、音が聞き取りにくい。そっと瞳を閉じ、耳を澄ませる。
その音色を耳が拾い上げた途端、閉じたままのカカシの目元がふと緩んだ。
(やっぱり・・・。イルカ先生の笛の音だ・・・)
小さく小さく吹いているのだろう。途切れ途切れではあったが、微かな音色がカカシの耳に届いて来ている。
相変わらず綺麗な旋律だが、どこか物悲しく聞こえるのはカカシの気のせいだろうか。閉じていた瞳を開け、音が聞こえる方向へと視線を向ける。
(どこで・・・)
カカシのテントで吹いているのかとも思ったが、イルカは周囲の迷惑になるからと、必ず防音の為の結界を張ってから演奏をしていた。小さいとはいえ、その笛の音が聞こえてくるという事は、カカシのテントではないのだろう。
視線を巡らせ、山の中腹に見えるはずのあの湖が不自然な濃い霧ですっぽりと覆われているのに気付いたカカシは、僅かな躊躇いの後、その身体をゆっくりと倒していた。
枝の上からふわりと落下し、枝々を伝い、イルカが居るのだろう湖へ向かって降りていく。
遠くからなら、イルカの姿を見てもいいだろうか。少し様子を見るだけなら許されるだろうか。
イルカに姿を見せるつもりはない。ただ、もう少し近くで笛の音を聞きたいと思った。
湖に近付くにつれ、一気に霧が濃くなってくる。
湖畔の地中に埋めてあるあの札は、カカシとイルカのチャクラに反応して発動する。発動させたイルカはもちろんだが、カカシも幻術に掛かる事はない。
札の効果は一刻余りだ。そろそろ切れる頃なのか晴れ始めた霧の中、徐々にはっきりと聞こえてくるイルカの笛の音を頼りに湖の方向へと進んでいたカカシは、不意にその足を止めた。
湖畔にある大きな岩の上。そこに腰掛け少し俯くイルカが、手にした笛を小さく奏でている。
奏でる旋律同様、その横顔が堪らなく悲しそうに見えてしまったカカシは、イルカを見つめるその深蒼の瞳を切なく眇めていた。
霧が晴れていき、空に輝く細い月が笛を奏でるイルカの姿を照らし始める。それに気付き手を止めたイルカが、銀色に輝く月をゆっくりと見上げた。
その姿を見たカカシの瞳が僅かに見開かれる。
見上げたその顔を今にも泣きそうな程に歪ませたイルカが、ゆっくりとその視線を下げながら、片腕で顔を覆ってしまったのだ。泣いているのか、その肩が小刻みに震え始める。
「・・・どうしてですか・・・っ、・・・カカシさん・・・っ」
そうしてイルカの震える声で告げられたカカシの名に、カカシはきつく眉根を寄せていた。
今ほど自分を憎らしいと思った事は無い。イルカから視線を逸らしながら奥歯をきつく噛み締め、イルカを傷付け、泣かせてしまった自分を思うがまま罵倒する。
(ゴメンね・・・。イルカ先生、ゴメン・・・)
その優しい心にカカシへの想いを抱きつつあったのだろうに、あんな事をして傷つけた自分を許して欲しい。
恋人役を続けろと命令しておきながら、イルカを避けている自分を許して欲しい。
心の中でそう謝罪を繰り返しながらイルカに背を向けたカカシは、まるで逃げるかのようにその場を後にした。





そびえ立つ城壁の真下に身を潜め、もう間もなく始まる爆破を待つ。
九月に入り、随分と丸くなった月の明かりが少々邪魔だが、爆破の騒ぎに乗じれば侵入は容易いだろうと思われた。
こうしてすぐ側で見上げてみると、本当に巨大な城だ。支援物資運搬に使われていたという地下坑が無ければ、すぐにでも備蓄が尽き、易々と陥落していただろう。
この城の偵察に向かわせていた部隊が、少し遠い場所にあった地下坑出入り口を発見してくれて本当に良かった。
今回の作戦は、新たに発見した支援ルートを絶つ事と、その混乱に乗じて城に潜入し、篭城している大名を屠る事。
この城さえ落とす事が出来れば、この任務も終了となる。イルカをカカシの恋人役から解放してやれる。
城を見上げながらイルカの事を想うカカシの元に、城の中の様子を探らせていた者が戻ってくる。
「はたけ総隊長」
「ん、お疲れ様。中の様子は?」
「はい。気付かれた様子はありません」
「そっか。そろそろ爆破の時刻だけど・・・。ちょっと手間取ってるみたいだね」
地下坑の出入り口には、トラップだけでなく幻術まで仕掛けてあると報告にあった。それらを解術するのに手間取っているのだろう。爆破予定時刻を少し過ぎてしまっている。
そろそろ爆発音が聞こえてもいいはずだがと、地下坑出入り口の方向へ視線を向けた所で、大きな爆発音が静かだった夜闇を切り裂いた。それと同時に遠方で大きな砂煙が上がる。
爆破開始だ。
途端に、城の中の気配が慌しくなり始める。
「・・・雑魚に用は無い。大名だけ叩くぞ」
「承知」
次々に爆発音が鳴り響く中、数名の部下と共に、ざわついている城の中へと侵入を開始する。
切り立つ城壁を上っていき、その一角にある見張り台の見張り役を気絶させたところで、ふと何かに気付いたカカシは中へ向かおうとしていたその身体を止めた。
「・・・はたけ総隊長?」
「ちょっと待って」
そう言って部下を引き止めたカカシは、見張り台の窓から身を乗り出し、その深蒼の瞳をスッと閉じた。ゆっくりと意識を集中し、爆発音に掻き消されてしまっている音を拾う。
夜の闇に轟く、腹に響くような低い爆発音の合間に聞こえてくる、甲高い微かな旋律。
それが聞こえた途端、カカシは閉じていたその瞳を急いで開けていた。
(イルカ先生の笛・・・ッ!)
聞き間違えるはずがない。カカシはイルカの笛を初めて聞かせてもらった夜以来、毎日のようにイルカに笛の音を聞かせてくれるよう強請っていたのだ。
その音色はこの耳がはっきりと覚えている。
イルカの笛の音がこんなに遠くまで聞こえてくるという事は、イルカは息の続く限り吹いている事になる。
何かを伝えようと、懸命に、遠くまで届くようにと。
「・・・作戦中止だ。本陣に戻るぞ」
「え・・・?」
「本陣で何かが起こってる!他の部隊にも連絡だ!戻るぞ・・・ッ!」
「・・・ッ!」
突如戻ると言い出したカカシを訝しげな表情を浮かべて見ていた部下たちは、振り返ったカカシがそう叫んだ瞬間、その言葉の意味を理解したのだろう。くっきりと眉根を寄せた。
そんな彼らを置いて、見張り台の窓から飛び出す。
そうして、上ったばかりの城壁をひと飛びで駆け下りたカカシは、本陣へ向けて走り始めた。