恋情に舞う夜 4






中庭にあるその舞台は、小さいながらもしっかりとした造りになっている。
舞台へと続く橋の傍ら。夜闇に浮かび上がっているのは、瑞々しい葉を茂らせている紅葉の朱だ。
それと同じ色に塗られた欄干に白い袖を掠めるカカシが、段を一つ上り、舞台中央へと向かう。見送るイルカは、穿いている漆黒の袴を捌き、段の下にある定位置にその腰をすっと下ろした。
カカシが舞台中央へと立ったのを確認し、掲げた笛を口元へと持っていく。そうしてイルカは、すぐさま、すぅと大きく息を吸った。
時折吹く風に中庭に植えられた木々がざわめく音と、あちらこちらで焚かれている篝火が爆ぜる音。それらに、目立たないようにと黒の単に身を包んだイルカが奏でる笛の音が重なっていく。
愛し人に馳せる想いを表現した恋情の舞は、穏やかな笛の音から始まる。秋夜の闇に、イルカが心を込めて奏でる旋律が溶け込んでいく。
―――始めはな、穏やかな時を過ごす恋人たちの心情を表しているのじゃよ。
これを習った当初、どうしても上手く吹けなかったイルカは、じい様に助言してもらった事があった。
穏やかな時がいつまでも続くといい。幸せな時がいつまでも続けばいい。
そう願う恋人たちの心情を、その当時恋人の居なかったイルカは、やはりというか、どうしても上手く解釈する事が出来ず、その代わりに、幼い頃に亡くした両親との穏やかな時を想いながら吹いていた。
いつか恋人が出来て、この曲を理解する事が出来ればいい。
長い間そう思っていたイルカはその後、始めの穏やかな心情どころか、一年も掛けてその切ない想いを思い知る事となるのだから、人生とは分からないものだ。
内心小さく苦笑しながら笛を奏で始めたイルカの眼前。
いつもとは違い、その背をすっと伸ばし舞台中央に佇むカカシが、色白なその指先に持った舞扇をゆっくりと前へと差し出す。その先に見えるのは、座敷の奥から見つめる大名の姿だ。
舞手がじい様ではない事に気分を害しているのか、肘掛に頬杖を付く大名が、その眉根を僅かに顰めているのが分かる。
烏帽子を冠し、顔を隠せるようにと掛けた能面から柔らかな銀髪を覗かせるカカシが、イルカの笛の音に合わせ、すぅと滑らかな所作で舞い始める。
(凄い・・・)
それを見るイルカの身体が僅かに震える。鳥肌が立ってしまう。
じい様の舞を、すぐ側でもう何年も見てきたイルカだからこそ分かる。カカシの舞は、細かな癖までじい様とそっくり同じだった。
違うのは、小さな舞台を目一杯に使い優雅に舞うカカシが、その胸に想うのはイルカだという事。
それが、手にした笛に息を吹き込む唇が震えてしまいそうになる程に嬉しい。
さすがとしか言いようがない。見れば、付いていた肘を起こした大名の、その眉間に浮かんでいた皺も消えてしまっている。
舞扇に括りつけられた長い飾り紐と、白い狩衣の袖口の端から伸びる朱色の紐を揺らすカカシが、トンと軽く足を踏み鳴らす。その音を合図に、曲調を少し変える。
穏やかだった時は短く、心を通わせていた恋人たちは離れ離れになってしまうのだ。
物悲しく響く笛の音に、そう奏でているのは自分だというのに、イルカのカカシを見つめるその瞳に涙が浮かびそうになってしまう。
カカシと別れた後の出来事が、次から次へとイルカの脳裏に思い浮かぶ。
アカデミー再開の為、カカシ率いる城攻めの任務から解任された後。
里に戻ったイルカが久しぶりにこの曲を奏でた時、イルカは突如溢れ出した涙で笛が吹けなくなった。
練習に付き合ってくれていたじい様にも随分と心配を掛けた事だろう。何も聞かず、その小さな身体でただ抱き締めてくれたじい様の温もりが、その時のイルカをどれだけ支えてくれたか分からない。
遠く離れ、いつ帰ってくるかも分からないカカシを、ただ待つのはとても苦しかった。
時折、風の便りに届くカカシの活躍を耳にするたび、イルカは不安に襲われた。
戻って来れない事情は理解していても、すぐに会いに行くからというカカシの言葉を信じ続けるのは、カカシに告げられた言葉しかカカシとの繋がりが無いイルカには大変な事だったのだ。
あなたが好きだと言うカカシの優しい声を何度も再生し、戦地での短くも穏やかな時間を繰り返し想ったが、カカシが側に居ない日常に、あれは夢だったのではないだろうかと、ふと涙してしまう日々が半年も続いた。
このままではいけない。待っていてというカカシの言葉を守れなくなってしまう。
そう思ったイルカは、ある日を境に、仕事と笛の練習に忙殺される日々を送るようになった。
恋情の舞に使われる曲は相変わらず泣けてきて大変だったが、カカシが好きだと言ってくれた笛だ。練習も、それまで以上に打ち込んだ。
そうやって自分を追い込んでいなければ、襲い来る淋しさに、イルカは押し潰されてしまいそうだったのだ。
それから約半年後。いくら丈夫なイルカでも、そろそろ身体を壊すのではと思われた頃、カカシはようやく里へと戻ってきてくれた。
今のイルカには、この曲の心情が痛い程に良く分かる。
カカシを待つ間、イルカの中に蓄積されたいくつもの切ない思い出は、イルカの笛に深みを増した。
あの優しい声が聞きたい。カカシの深蒼の瞳を柔らかく細めて浮かべる笑みが大好きだった。
夜闇にぽっかりと浮かび上がった銀色に輝く月を見上げるたび、カカシを想うイルカの瞳からは止め処なく涙が溢れ出した。
逢いたい。逢いたい―――。
遠く離れたカカシを想いながら吹く恋情の舞は、図らずもイルカが奏でる笛の中で、最も評判の良いものとなった。
その時のようにカカシを想い、懸命に笛を奏でるイルカの瞳に、篝火に照らされ儚くも切なく舞うカカシの姿が映し出される。
(カカシさん・・・)
見ているだけで胸を打つその舞に、カカシもまた辛い日々を送っていたのだろうと分かってしまう。
いや。イルカよりもカカシの方が辛かったに違いない。
イルカには、アカデミーの子供たちや、じい様、それに同僚たちが居た。里の皆が居た。
けれどカカシは、荒んだ戦地を転々としながら、たった一人で過ごしていたのだ。
どれだけ辛かったか、里の皆に支えられていたイルカには想像する事すら難しい。それなのに。
―――ゴメンね・・・?
カカシは何度もイルカに謝罪する。
一年もの長い間待たせていた事を謝り、そして。
―――ありがと・・・。
カカシの言葉を信じ、ずっと待っていたイルカに感謝の言葉を捧げてくれる。
それを聞くたびに甦る、イルカの胸の中に積み重なっている切ない思い出は、まだまだ色鮮やかで泣きそうになってしまうけれど。
(いつか・・・)
カカシの胸の中で積み重なっているだろう切ない思い出も、いつか、愛しい愛しい思い出に変わるといい。互いを苦しい程に切望していた一年という長い時間は、決して無駄ではなかったのだと、そう思えるように。
震えてしまいそうになる息を懸命に整え演奏を続けるイルカは、神々しく舞うカカシを視界の端に捉えながら、祈るようにそう思った。