きっとまた手を繋ぐ 4 受付所を有する建物の窓の外。 だいぶ暖かくなって来たからだろう。夕刻となり薄暗くなり始めている中庭では、満開に咲き誇っていた桜が、その花弁をはらはらと落とし始めていた。 ズボンのポケットに片手を突っ込み、受付所へと続く廊下を歩きながら視界の隅にそれを捉えるカカシは、内心切ない溜息を吐く。 数年前、イルカを伴侶に迎えた春が再びやって来た。 生命の息吹に満ち、喜びに溢れた季節―――。 春をそんな風に表現したイルカは、二人で暮らしていたあの家のリビングに置かれたソファーから、色とりどりの花が次々と咲く庭を眺めるのが大好きだった。 漆黒の瞳を嬉しそうに細めながら庭を眺めるイルカの横顔。それを脳裏に思い浮かべたカカシの深蒼の瞳が切なく眇められる。 (・・・手入れを頼まないとな・・・) 二人で暮らしていた家に一人で暮らすのは辛く、上忍寮の自室で生活しているカカシは、イルカと暮らしていたあの家には寄り付かなくなっている。 イルカが気に入っていた家だ。きっとまた二人で暮らせる事を信じ、空気の入れ替えと庭の手入れくらいは頼んでおいた方がいいだろう。 上忍師として就いた任務報告書を片手に辿り着いた受付所の扉。それを前にするカカシは一つ深呼吸する。 気配を探らなくても分かる。扉の向こうに在るのはイルカの気配。 扉を開ける前に緊張しているのは、子供たちを介して知り合って一週間以上経つイルカを、そろそろ呑みに誘ってみようと思っているからだ。 ズボンに突っ込んでいた手を取り出し、カカシは受付所の扉をがらりと開ける。 いつもよりも少々遅い時間だ。ちょうど混雑が解消され始めた頃だったのだろう。 人影の合間。奥にあるカウンターに着いていたイルカと、真っ先に視線が合ったカカシの胸が小さくトクンと高鳴る。 まるでカカシが来るのを待っていたかようなタイミングだったが、子供たちの様子が窺えるからか、報告書の提出を心待ちにしているらしいイルカだ。 いつもよりも遅くなってしまったから、子供たちに何かあったのではと心配していたのだろう。 続いてホッとしたような笑みも小さく向けられ、自分ではなく、自分が持っている報告書が心待ちにされていたのだと思い知らされたカカシは、笑みを向けてくるイルカからそれとなく視線を逸らし、僅かに俯くその口元に自嘲の笑みを小さく浮かべていた。 (ま、当然か・・・) イルカの記憶からは今、神様とカカシに関する事全てが失われているのだ。 自分よりも子供たちの方を気にして当然だというのに、期待してしまっていた自分が笑える。 カカシとイルカ、二人に関する事全てに緘口令が敷かれているはずだが、カカシが現れた途端、ざわざわとざわめき始めた受付所内。 それを冷ややかな眼差しでゆっくりと見回し、周囲の人間を黙らせたカカシは、いつものようにイルカの元へ足を進めた。 「・・・お願いします」 「お疲れ様です。お預かりします」 カカシが差し出した報告書。それを受け取ったイルカが、報告書へと落とす漆黒の瞳を嬉しそうに綻ばせながら、手にしたペンを滑らせチェックを進めていく。 そんなイルカから視線を逸らしたカカシは、壁に掛けられた時計へ深蒼の瞳を向けた。 シフトが組み替えられていなければ、イルカはそろそろ交代の時間のはず。子供たちの話題を出しにして呑みに誘えば、きっと誘いに乗ってくれるだろう。 報告書をチェックしているイルカへと視線を戻し、呑みに誘う機会を窺っていたカカシの視界。最後までチェックを終えたはずのイルカのペンが、ほんの僅かだが躊躇いを見せた。 報告書では窺えない子供たちの様子をカカシに聞きたいが、現・上忍師であるカカシに気兼ねしているのだろう。言い出せずにいるイルカに気付いたカカシは、「イルカ先生」とそっと声を掛ける。 「子供たちの事でちょっと相談したい事があるんですが、お時間ありませんか?」 報告書から顔を上げたイルカへとそう訊ねてみると、運良くシフトは組み替えられていなかったらしい。 「もうすぐ交代の時間なので大丈夫です」 壁の時計にチラと視線を向けたイルカから、カカシの思惑通りの答えが返って来た。 「じゃあ、どうです?一杯呑みながら」 深蒼の瞳を柔らかく細めながらそう誘ってみると、呑みに誘われるとは思っていなかったのだろう。カカシを見上げるイルカの漆黒の瞳が、僅かだが驚きに見開かれた。 (お願いだから頷いて、イルカ先生) イルカの中では、二人は知り合ってまだ一週間と少しだ。 上忍であり、あまり良く知らないカカシと呑む事に躊躇っているのだろう。逡巡する様子を見せていたイルカは、だが、子供たちの様子が詳しく聞ける機会を逃したくは無かったらしい。 「分かりました」 小さく笑みを浮かべるイルカから了承の言葉を得たカカシは、内心安堵の溜息を大きく吐いていた。 木の葉の里の外れに店を構える居酒屋・萩屋は、一楽に次ぐイルカお気に入りの店だ。 新鮮な魚介類と、美味い酒。 イルカは何より、その安さに惹かれていたようだが、カカシのお気に入りにもなっている萩屋の最も奥にある個室。 「どうぞ、イルカ先生」 「すみません。ありがとうございます」 良く見知った店に連れて来られて安堵したのだろう。座敷に腰を落ち着け、まずは一杯とカカシが差し出した銚子から、申し訳なさそうに杯を受けるイルカの表情が随分と柔らかくなっている。 二人で暮らしたあの家同様、この萩屋も思い出深い場所だ。 イルカの馴染みの店だと知っていたくせに、良い店を教えてくれた礼にと少々強引に呑みに誘い、そうしてカカシはここで、イルカの色んな表情を見せてもらった。 (・・・懐かしいな) 今と同じく、少し緊張していたのだろう。 酒には強いはずのイルカが頬をほんのりと染めて笑う様は、長年抱いていたカカシの恋心を、さらに激しく燃え上がらせる切っ掛けとなった。 思い出に浸っていたからだろう。ふと気付けば、イルカの杯に酒がなみなみと注がれている。 「・・・おっと」 傾けていた銚子を慌てて戻すと、杯を一旦卓上に置いたイルカが、そんなカカシの手の中から銚子をするりと抜き取った。 「カカシ先生もどうぞ」 「ありがとうございます」 はにかむ様な笑みを浮かべるイルカが可愛らしい。銚子を傾けられ、杯を差し出すカカシの顔にも自然と柔らかな笑みが浮かぶ。 なみなみと酒を注いで貰い、二人揃って杯を掲げ、乾杯の合図にする。 以前と全く変わらないその合図が嬉しい。口元に小さく笑みを浮かべながら杯に視線を落とすカカシが、酒を呑もうと口布を引き下げた瞬間。 「・・・っ」 イルカが小さく息を呑む気配に気付き、どうかしたのだろうかと杯に落としていた視線を上げたカカシは、数年前と全く同じ光景を目にし、その深蒼の瞳を僅かに見開いていた。 漆黒の瞳を大きく見開き、手にする杯を取り落としそうになっているイルカが、カカシの目の前に居る。 あまりにも同じ反応を見せられ、カカシの口元に小さく苦笑が浮かぶ。 「・・・どうしたの?」 小さく首を傾げてそう訊ねるカカシの記憶が確かなら、イルカの口から出て来る言葉はきっと―――。 「・・・もの凄い男前で吃驚しました・・・」 ほぅと感嘆の溜息を零すイルカから告げられたその言葉は、やはりというか、数年前に告げられた言葉と同じだった。それを聞いたカカシの苦笑が深くなる。 (・・・またココからやり直しだ) 自分に良い印象を抱いてくれたらしいイルカに期待を募らせながら、イルカが注いでくれた酒に口を付けるカカシはそうして、イルカの愛情を再び得る為の努力は惜しまない事を、心新たに決意していた。 |
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