きっとまた手を繋ぐ 11






昼間だというのに、口布越しに吸い込む空気が少し冷たい。
依頼書を受け取る為、窓から差し込む日差しを足元に受けながら受付所へと続く廊下を歩くカカシの口布の下、ふと小さく溜息が零れ落ちる。
イルカへの誕生日プレゼントをヤナギに託したカカシが、少々手の掛かる任務に就いたのは初夏の頃だったはずだが、任務をようやく終えて帰還してみると、新緑に萌えていた里は僅かだが秋の色を纏い始めていた。
自分の誕生日までには充分戻れると思われていた帰還が大幅に遅れてしまったのは、隊長を務めていたカカシの失態だ。
任務地で誕生日を迎える羽目となった訳だが、イルカを伴侶に迎える以前はそれが普通だったのだ。平気だろうと思っていたが、イタチにやられて眠っていた去年とは違い、意識があったからだろうか。
カカシの誕生日当日。まるで自分が祝われているかのようにカカシの誕生を喜んでくれていたイルカが、カカシは恋しくて恋しくて堪らなかった。
愛妻の記憶を自ら封じるという愚行を犯した自分には似合いの罰だと思ったが、離れていれば自然と薄れていくだろうと思われていたイルカへの想いは今も、カカシの中で静かに燃え続け少しも薄れてはいない。
受付所の扉の前に辿り着き、中にイルカの気配が無い事を確かめるカカシから、ホッと小さく安堵の溜息が零れ落ちる。
随分と顔を見ていないのだ。イルカに会いたい気持ちは多々あるが、今の自分の状態をかんがみるに、しばらくの間はイルカを避け続けた方が賢明だろう。
ズボンのポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、カカシは受付所の扉をガラリと開ける。
「・・・随分と遅いご出勤じゃないか、カカシ」
途端、受付所の奥に設置されたカウンターの中央。ゆったりと片肘を着き、手にする書類に落としていた視線をチラと向けて来る綱手からそう告げられ、後ろ手に扉を閉めるカカシの口元に小さく苦笑が浮かぶ。
Sランクだった任務から昨日の昼間帰還したばかりだ。丸一日の休みのみで次の任務に就けというのだから、五代目火影である綱手は本当に人使いが荒いとカカシはつくづく思う。
「・・・今日はゆっくりでイイって仰ったのは火影様じゃないですか」
綱手の隣にヤナギの姿を見止めたカカシは、綱手にそう返しながらヤナギの元へと足を進める。
託したイルカへの誕生日プレゼントを、ちゃんと渡してくれたかどうか尋ねる為だ。
「お疲れ様です。こちらが依頼書です」
「ありがと。・・・ねぇ、例のアレ」
ヤナギから差し出された依頼書を受け取ったカカシが、依頼書に目を通しながらプレゼントの件を尋ねようとした時だった。
「はたけ上忍」
カカシの言葉を遮るように小さく名を呼ばれたカカシは、小さく首を傾げながら、依頼書に落としていた視線をヤナギへと戻す。
「・・・あいつに見合いの話が持ち上がってます」
「・・・っ」
真っ直ぐに見上げて来るヤナギが言った『あいつ』とは、当然の如くイルカの事だろう。それを聞き、深蒼の瞳を大きく見開いたカカシは小さく息を呑む。
いつかは来ると思っていた。
イルカの側に、自分ではない誰かが寄り添う―――。
想像しただけで身を引き裂かれるような思いだが、愛妻だったイルカの手を離してしまったのは自分だ。子供好きなイルカの結婚を阻む権利など、もう自分には無い。
阻めないからには、いつか現実となる日が来る。イルカの側に誰かが寄り添う様を見せ付けられる日が来る。
覚悟していたつもりだったが、カカシの覚悟はまだまだ足りていなかったらしい。
「・・・オレには・・・」
絞るように出した声が僅かに震えてしまい、深蒼の瞳を伏せるカカシの口元に自嘲の笑みが小さく浮かぶ。
イルカに見合いを持ち込んだのは、大方、イルカの子を熱望していたご意見番の二人だろう。見合いを勧められているらしいイルカがそのまま結婚するかどうかは分からないが、イルカに誕生日プレゼントを渡してくれたかどうか、未練がましく尋ねるのは止めた方が良さそうだ。
「・・・オレにはもう関係無いよ」
一言そう言い置いて、受け取った依頼書を片手で掲げるカカシはヤナギに背を向ける。
だが―――。
「・・・本当にいいのかい」
綱手からそう声を掛けられ、扉へ向かおうとしていたカカシの足がピタリと止まる。
「イルカが遠慮する性質なのは、お前が一番良く知っているだろう」
カカシとイルカが伴侶であった事を綱手は知らないはずだ。
今のヤナギとの会話でも、イルカの名は出していなかった。それなのに自分とイルカの関係を仄めかす様な事を告げられ、怪訝に思うカカシの深蒼の瞳が徐々に大きく見開かれていく。
「・・・ま・・・さか・・・」
ゆっくりと振り返ったカカシの視線の先。
「いつからかは知らないが、あの子は全部思い出しているよ。あたしが里に戻るまで、イタチにやられたお前を看ていたのはあの子だ」
「・・・っ」
カカシに視線を向ける事無く、手にした書類を読む綱手から衝撃的な事実を告げられたカカシは、ひゅっと小さく息を呑んでいた。
その視界の隅。綱手の隣に座るヤナギの眉間に深い皺が刻まれるのを捉えたカカシは、ヤナギもまた、その事を知っていた事に気付く。
「・・・っ、いつからだ・・・ッ!いつから・・・!」
イルカが記憶を取り戻している。
その事を知っていながら黙っていたのだろうヤナギの胸倉。それを、カウンター越しに勢い良く掴むカカシがそう詰問すると、イルカに黙っていて欲しいと頼まれでもしたのだろうか。いつもは真っ直ぐに見つめて来るヤナギの視線が苦しそうに逸らされた。
「・・・はたけ上忍が倒れた直後です」
「・・・っ」
だが、一年以上も前からイルカの記憶が戻っている事を小さな声で教えてくれ、掴んでいたヤナギの胸倉を解放したカカシは急いで受付所を後にする。
記憶を取り戻しているらしいイルカを探す為だ。
この時間イルカが居るだろうアカデミー。そこに急いで向かうカカシの噛み締めた奥歯がギリと嫌な音を鳴らす。
イルカの記憶を操縦した際、神様と自分に関する記憶を完全に消去するのではなく、奥底へと封印したのはカカシの我欲だ。
自分が鮮明に覚えているとはいえ、イルカの中の記憶という名の思い出を失いたくはなかった。消し去るなんて出来なかった。
だが、封印が簡単に解けるようでは、イルカの記憶を操縦する意味が無くなってしまう。
術を掛けたカカシ本人ですら解けないよう、二重三重に封印したイルカの記憶。
それを解いてしまったのがもし、カカシが倒れた事を知ったイルカの強い強い想いだとしたら―――。
(イルカ先生・・・っ)
僅かに息を乱す程に急いで向かったアカデミー。だがそこに、カカシが渇望するイルカの姿は無かった。
職員室に残っていた同僚らしき女性に、用事があるからと言って早退したと教えられ、カカシは礼もそこそこに、熟知しているイルカのアパートへと向かう。
イルカのアパート、それから上忍寮にあるカカシの自室。もしかしたらと、二人で暮らしていた家にも来てみたが、イルカの姿を捉える事が出来ず、焦るカカシはチッと小さく舌打ちする。
こんな事になるのなら、イルカを諦めようと心に決めた後も、警護の為にとイルカに付けていた忍犬を外さなければ良かった。
(一体どこに・・・っ)
二人で暮らしていた家の前。他にイルカが行きそうな場所が思い浮かばず、ぐるりと視線を巡らせたカカシの深蒼の瞳が大きく見開かれる。
「・・・っ」
里のどこからでも望む事が出来るあの崖の上。
遠くはあったが、そこに見間違えるはずも無いイルカの姿を捉えたカカシは、イルカが居る崖へと急いだ。