繋いだこの手を離さない 4 傾き始めた麗らかな春の日差しが目に眩しい。 少し強い風が、崖の上に立つイルカの黒髪を撫でていく。 幼い頃にイルカが落下しそうになった危険な崖は、あの後すぐに頑丈な柵が設置され、安全な場所へと変わっていた。 柵から少しだけ身を乗り出し、桜色に染まり始めた里の風景を眺めるイルカの漆黒の瞳が柔らかく細められる。 春は出会いと別れの季節だ。 アカデミー教師となって数年。新しい出会いがある春は大好きだが、教え子との別れは辛い。毎年この時期になると、イルカはついつい感傷的になってしまう。 思い出に浸ってしまうのだ。 「・・・サクモ様に助けて頂いてから、もう二十年近く経つんですね。早いなぁ・・・」 その二十年近くの間に色々あった。 サクモに助けて貰った数年後、九尾の事件で両親を亡くしたイルカは、一人で生きていく事を余儀無くされた。 友には恵まれていたが、頼れる人は誰も居ない。 ただがむしゃらに頑張るイルカを、三代目火影がずっと目を掛けてくれてはいたが、いつでも一緒に居られるわけではない。不意に襲い来る淋しさに押し潰されそうになった事もあった。 いや。心の中に神様と慕うサクモが棲んで居なければ、一人で生きていかなければならない孤独に押し潰されていたかもしれない。 楽しかった事、嬉しかった事。それから、悔しかった事や哀しかった事。 イルカは毎日のようにここへ足を運び、大好きな里の風景を眺めながら、その日あった事を神様へと報告した。 今思えば、神様にそうやって何でも話す事で、心の平穏を保っていたのだろう。心配を掛けてしまうかもしれないと、両親が眠る慰霊碑には行けなかった時も、イルカは神様にだけは包み隠す事をしなかった。 そして現在。 子供好きが高じて教職に就き、受付業務も兼ねる内勤中心となった今も、イルカは神様への報告だけは欠かさずにいる。 「担任を任せられるようになって数年ですが、最近ようやく、手応えみたいなものを感じられるようになって来たんです」 風景を眺め、面映い笑みを浮かべながらそう告げるイルカの声を聞く者は誰も居ない。 神様へと話し掛けてはいるが、助けて貰った時以来、イルカが神様と会った事は今まで一度も無いのだ。イルカの声を神様が聞いているとは到底思えないが、それでもイルカは、ここでの報告を止める事をしなかった。 その日あった事をこうやって取り留めなく報告するイルカを、銀髪の神様がどこからか見守ってくれているような気がしているからだ。 今でもはっきりと思い出す事が出来る神様の綺麗な銀色の髪。 (・・・どうしてるかな・・・) それを脳裏に思い浮かべると、数年前に任務先で出会った神様と同じ銀髪を持つ暗部の事も思い出す。 神様に良く似ていた彼に再び会いたいとは思うが、相手は暗部だ。内勤中心になったイルカがそう簡単に会えるはずも無いだろう。 「・・・また来ますね、サクモ様」 いつかまた彼に会えるといい。 最後に笑みを浮かべて神様への報告を終え、帰路に着くイルカはこの時まだ、木の葉の里では珍しい銀髪の持ち主と再び出会える日が近付いている事を知らなかった。 * 受付所の窓から差し込む朝日が、カウンターの側に置かれた椅子に座るイルカの背を暖めてくれている。 春だからだろうか。その暖かさに随分と眠気を誘われる。 今朝、寝坊したからと朝食を抜いたのも良くなかったのだろう。頭がまだ眠っているのが分かる。 目覚ましに熱いお茶でも啜りたい所だが、ここは早朝の受付所だ。そのカウンターに着いたイルカに、のんびりとお茶を飲む暇なんてあるはずが無かった。 (・・・シャキッとしろ、シャキッと) 今にも出そうになる欠伸を堪え、イルカは気を引き締める。 早朝の受付所は依頼書を受け取る者たちで混雑する。ざわざわと騒がしい受付所内で、数名の同僚たちと共にカウンターに着くイルカはそうして、次々にやって来る者たちへ依頼書を手渡す作業に追われ始めた。 「・・・依頼書はこちらです。宜しくお願いします」 任務内容の簡単な説明の後、イルカは心の中で一人一人の無事の帰還を祈りながら依頼書を手渡す。 そうやって次々に依頼書を手渡していき、イルカの前に出来ていた長い列が粗方捌けたのを機に、イルカは壁に掛けられている時計へと視線を向けた。 (・・・もうこんな時間か) そろそろアカデミーが始業する時刻だ。手元に残っていた依頼書を全て手渡し終えたイルカは、隣の席に座る同僚へ「先に上がるぞ」と一声掛けて立ち上がり、気を抜いた途端出てしまった欠伸を噛み殺しながら受付所を後にした。 (職員室に着いたら、まずはお茶だな・・・) 朝食を抜いたから腹も減っている。お茶請けにと用意されていた物の中に、腹の足しになるようなものが何かあっただろうか。 そんな事を考えながら、イルカはアカデミーへと続く廊下の角を曲がる。 その曲がった先。 (・・・え・・・?) これから受付所へ向かう所なのだろう。三代目火影と、その顔の殆どを口布と額当てで覆い隠した見慣れない人物が連れ立って歩いて来るのを見止めたイルカは、その瞳を大きく見開いていた。 (・・・う、そ・・・) 驚いた拍子に立ち止まってしまったイルカに気付いたのだろう。火影の隣を歩く人物が窓から差し込む朝日に照らされて光り輝く銀の髪を揺らし、外界に唯一晒している深蒼の瞳をイルカへ向けてくる。 「・・・っ」 そう、銀髪だ。銀の髪を持つ彼と視線が絡んだ途端、イルカの心拍数が跳ね上がる。 それはそうだろう。イルカが知る限り、木の葉の里で銀の髪を持つ人物は、イルカが神様と慕うサクモと、神様に良く似ていた暗部の彼のみだ。 その木の葉の里では珍しい銀色の髪を持つ人物が今、イルカの目の前に居る。 もしかすると彼は、イルカがずっと会いたいと願っていた―――。 「・・・おい、イルカ」 「・・・っ」 銀髪の持ち主とイルカの視線が絡んでいたのは僅かな間だった。背後から不意に声を掛けられ、イルカはハッと我に返る。 慌てて振り返ってみると、イルカに続いて受付業務が済んだのだろう。先ほどまで受付所で一緒だった同僚のヤナギがそこに居た。 「そんな所でぼーっとつっ立ってると、火影様が通れないだろ?邪魔だ」 「え?あ・・・あぁ」 呆れ顔のヤナギから腕を引かれ、通路の端へ退いたイルカの脇を火影と銀髪の持ち主が通り抜ける。 「おはようございます、火影様」 「おはようございます」 「うむ。おはよう」 受付所へと続く角を曲がる火影へそう挨拶するヤナギに倣い軽く頭を下げながら、イルカはその隣を歩く人物へそっと視線を向けた。 控え目な視線だったにも関わらず、イルカのその視線にすぐに気付いた銀髪の主が、擦れ違いざまにその深蒼の瞳をふと和らげる。 (うわ・・・っ) 慌てて視線を下げるイルカの頬が羞恥に染まる。 視界から彼の足が消えるまで頭を下げ続け、それから殊更ゆっくりと頭を上げたイルカの耳に、「元暗部らしいぞ」というヤナギの小さな声が聞こえてくる。 「・・・ッ!それ・・・っ、本当か!?」 ヤナギが言っているのは、銀髪の持ち主の事だろう。それを聞いたイルカは、彼の事を知っているらしいヤナギへ、小さい声ながらも勢い込んでそう訊ねていた。 「ああ。今でも暗部としての任務に就いてるらしいけど、今日から時々、上忍としての任務にも就くらしい」 「名前・・・っ、名前は!?」 今にも掴み掛かりそうな勢いでそう訊ねるイルカへ、ヤナギが苦笑を浮かべて見せる。 「ちゃんと教えてやるから、ちょっと落ち着け。名前は『はたけカカシ』さんだ」 「・・・!」 その名を聞いたイルカの瞳が大きく見開かれる。 (・・・サクモ様じゃ、ない・・・?) イルカを助けてくれた神様と同じ銀髪を持つ彼は、だが、サクモという名前では無かった。 期待が大きかった分、その事に少々気落ちしてしまったが、カカシがイルカを助けてくれた人物である事に変わりは無い。 元暗部という事をかんがみても、数年前にイルカを助けてくれた銀髪の暗部は、やはりカカシなのだろう。 こっそり盗み見るなどという不躾な視線を向けたのにも関わらず、カカシは気分を害すどころか、イルカへ笑みを向けてくれた。数年前にたった一度しか会った事の無いイルカの事を、恐らくカカシは覚えていてくれたのだ。 もう会えないかもしれないと思っていた神様に良く似た銀髪の暗部。 (また今度会えた時、改めてちゃんとお礼を言わなきゃ) 神様同様、ずっと会いたいと思っていた人物に、これからは時々でも会える。 その嬉しさが、じわりじわりとイルカの胸を侵食していき、受付所へと向かうカカシの少し猫背な背中を見送りながら、イルカはその口元に小さく笑みを浮かべていた。 |
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