繋いだこの手を離さない 5






イルカが次にカカシに会えたのは、それから数日後。夕闇が迫り、灯りが点されたばかりの受付所でだった。
混雑していた受付所内が一段落を迎えた頃、報告書を提出しに来たのだろう。手甲を嵌めたその手に報告書らしき紙を持つカカシが受付所の扉をがらりと開ける。
「あ・・・っ」
その姿を見止めた途端、カウンターに着いていたイルカの口から自分の意思とは関係無く声が出てしまい、自らの口元を慌てて押さえるイルカは、その顔を羞恥に染めていた。
(俺、何やって・・・っ)
カカシにまた会えて嬉しかったのは良く分かるが、それを声に乗せるなんて恥ずかし過ぎる行為だ。
現に、カカシが姿を現した途端、イルカが声を上げたから驚いたのだろう。周囲の人間が何事かと注目してしまっている。
慌てて何でも無いと周囲に作り笑いを浮かべて見せていたイルカの耳に、「お願いします」と、幾分低くなり、艶の増した懐かしい声が聞こえてくる。
(・・・っ)
視線を前に戻してみると、その深蒼の瞳を柔らかく細めて報告書を差し出すカカシが、イルカのすぐ目の前に立っていた。
「お預かりします・・・っ」
ちょっとした顔見知りだからだろうか。カウンターにはイルカの他にも数人着いているというのに、カカシがイルカを選んで提出してくれた事が嬉しい。
緩みそうになる顔を引き締めながら、イルカはカカシから受け取った報告書を丁寧にチェックしていく。
少々癖のある字だ。カカシが書いただろうその字を読み進めながら、イルカは改めてカカシの強さを実感していた。
(・・・凄い・・・)
少し大掛かりだったAランク任務に隊長として就いたカカシの活躍は、報告書を読むだけでも充分に窺い知る事が出来た。
内心で感嘆の溜息を何度も零しながら最後まで報告書を読み進めたイルカは、カカシの無事の帰還を喜びながら顔を上げた。
「はい、結構です。お疲れ様でした」
「ありがと」
自然と笑みを浮かべたイルカへと、カカシも唯一見せている深蒼の瞳を弓形に細めて見せてくれる。
(あ・・・)
その顔の殆どを覆い隠しているカカシであるが、それでも、優しそうな柔らかな笑みを浮かべてくれた事は窺えた。
数年前に出会った時には暗部面で隠されていた深蒼の瞳や、年数を経て深みを増した声だとか、少々癖のある字だとか。
こうして再び出会えて、カカシの事をたくさん知る事が出来て嬉しい。
踵を返したカカシの背中を見送りながらそんな事を思っていたイルカだったのだが、その背が扉の向こうに消えてようやくハッと気付く。
(お礼!言ってない・・・っ)
慌てて、隣の席に座るヤナギに「ちょっと席外す!」と言い置き、イルカは受付所を出たカカシの後を急いで追う。
カカシが閉めたばかりの扉を開けてすぐの廊下は、その窓に闇色と茜色が混在する空を映し出していた。
灯りが点る廊下の先。少し離れた所まで行ってしまっていたカカシの丸い背を見止めたイルカは、後ろ手に受付所の扉を閉めながら、カカシの背中へと声を掛けた。
「はたけ上忍!あの・・・っ」
イルカの声を聞き止めてくれたカカシが足を止め、背後に居るイルカを振り返る。
「・・・何か?」
立ち止まってくれたカカシの側へ急いで駆け寄ったイルカは、しっかりと踵を合わせ、「あの時は、ありがとうございました!」と深々と頭を下げた。
「・・・腕のケガは平気だった?」
笑ってくれたのだろう。柔らかさを増した声で告げられたその言葉に嬉しくなる。やはりカカシはイルカの事を覚えていてくれたのだ。
顔を上げた先。イルカを見つめるカカシが、思ったとおり柔らかな笑みを浮かべているのを見て、イルカの顔にも面映い笑みが浮かぶ。
「はい。はたけ上忍の応急手当のお陰で何事も無く。・・・助けて頂いたのに、まともにお礼も言わず大変失礼しました」
イルカがそう言って再び軽く頭を下げると、カカシからは「ううん」と小さな苦笑が返って来た。
「『ご武運を』って言って貰えましたから。それで充分ですよ」
イルカを見つめていたカカシの深蒼の瞳が僅かに伏せられる。
「・・・嬉しかった」
カカシの瞳がふと柔らかさを増し、そうして告げられた言葉は、イルカまで嬉しくさせてくれた。
小さく笑みを浮かべていると、何かを思い出したのか、伏せられていたカカシの瞳がふと上げられる。
「・・・そうだ。これから食事に行こうと思ってるんですが、美味い魚を食べさせてくれる店をどこか知りませんか?里内の事にはまだちょっと疎くて・・・」
「あ、はい。そうですね・・・。魚でしたら、『萩屋』でしょうか。新鮮な魚を扱っているのでお勧めだと思います」
暗部として活躍していたカカシだ。里に戻るのも久しぶりなのだろう。
苦笑を浮かべるカカシからそう訊ねられ、イルカは自らの行きつけでもある店の名前を告げた。
美味いという事はもちろんだが、あそこには個室がある。顔を隠しているカカシだから、個室のある店の方が良いだろうと思った。
「『萩屋』・・・」
だが、萩屋という名前も聞いた事が無かったのか、カカシが銀髪を揺らし、小さく首を傾げる。
「・・・少しお待ち頂けますか?今、地図を描きますね」
「すみません。ありがとうございます」
結構有名な居酒屋なのだが、里内の事に疎いのなら、カカシが萩屋を知らなくても当然だ。地図を描こうと、イルカが自らのベストからペンと小さなメモ紙を取り出すと、どうやらカカシはかなり困っていたらしい。助かったというように安堵の溜息を零した。
「・・・本当は、直接ご案内出来ればいいんですけど・・・」
仕事さえ無ければ、萩屋だけでなく、里内をくまなく案内したい所だ。
掌に収めた小さなメモ紙に、萩屋までの詳細な地図を描きながらイルカがそう言ってみると、それを聞いたカカシは苦笑したようだった。
「まだ仕事が残ってるんでしょ?構いませんよ。地図を描いて貰えるだけでも助かります」
地図を描き終えたイルカが顔を上げ、「どうぞ」と小さなメモ紙を差し出すと、それを受け取ったカカシがメモ紙へ視線を落とし、その深蒼の瞳を柔らかく細める。
「あぁ、やっぱり先生なだけあって分かり易いな。ありがと、イルカ先生」
「え・・・」
地図へと視線を落としていたカカシから名前を呼ばれたイルカの瞳が大きく見開かれる。
失礼な事にイルカはまだ自己紹介をしていなかったと思うのだが、何故カカシがイルカが教師をしている事や、イルカの名前を知っているのだろうか。
疑問が顔に出ていたのだろう。視線を上げ、イルカの表情に気付いたカカシがその顔に苦笑を浮かべ、種明かしをしてくれる。
「この前、火影様に聞いたんです。あなたがお気に入りなんでしょうね。嬉しそうに色々と教えてくれました」
「・・・っ」
それを聞いたイルカは、その顔をかぁと羞恥に染め、絶句してしまっていた。
(色々って、俺の何を教えたんですか、火影様・・・っ)
悪戯小僧だった自らの過去の所業ばかりがあれこれと脳裏に浮かび、ぐるぐると考え込み始めたイルカを見て、カカシが小さく吹き出す。
「大丈夫。熱心ないい先生だってコトしか聞いてませんよ」
「あ・・・」
くつくつと笑うカカシからそう告げられたイルカの顔が、これ以上ないという程に赤く染まる。
(ぅわ、俺・・・っ)
色々に心当たりがあり過ぎて慌ててしまったが、火影がそんな事まで語るはずもない。
少し考えれば分かる事なのに、動揺してしまった自分が恥ずかしかった。
「・・・笑ったりしてゴメンね?地図、ありがと」
「い、いえ・・・っ」
笑みを残したままのカカシから謝罪と感謝の言葉を告げられ、イルカは慌ててぶんぶんと首を振る。
カカシの人柄だろう。上忍であるのに、中忍であるイルカにも気さくに接してくれている。それが嬉しい。
イルカへ背を向けたカカシの背中を見送るイルカの顔に自然と笑みが浮かび、その笑みは受付所へ戻ってもなかなか消える事が無かった。