繋いだこの手を離さない 7






アカデミーから執務室へと続く廊下に、春の柔らかな日差しが注ぎ込んでいる。
四月半ば近くになっても花冷えの日々が続いていたのだが、ここ最近は暖かいからだろう。窓の外、アカデミーの中庭で満開に咲き誇っていた桜は、その花弁をひらひらと落とし始めていた。
限られた時期にしか見る事の出来ない情緒溢れる里の風景だ。
授業中、少々暑かったからと捲り上げていた忍服の袖を引き下ろしながら、窓の外に視線を向けるイルカの口元にふと小さく笑みが浮かぶ。
桜は散り始めるとすぐに葉桜になってしまう。出来る事ならゆっくりと見て行きたい所だが、火影に呼び出されている身ではそうも言っていられなかった。
(何だろ・・・)
火影の雑務も引き受けているイルカであるからして、火影に呼び出される事は数多くあるが、授業中に呼び出されたのは初めてだ。
小さく首を傾げながら急いで執務室へと向かったイルカは、火影在するその執務室で、Sランクでもないというのに三代目火影から直々に任務を言い渡された。
「・・・教員派遣、ですか・・・?」
「そうじゃ」
確認するようなイルカのその問い掛けに、イルカが来室した時から難しい顔を崩さない火影が、執務椅子に深く凭れ、重い溜息を吐きながら頷く。
同盟国である蓮の国から、教員派遣の要請―――。
イルカが指名されているというその任務は、半月後である五月から数年間。期限ははっきりと設けられておらず、蓮の国側がもう良いと言うまで続くのだという。
「ですが、新年度が始まったばかりでそんな急に・・・」
命ぜられた任務に対し、意義を唱える事は服務規程に違反する。
けれどイルカは、今年度もアカデミーのクラス担任を任せられているのだ。年度途中で放り出すなど出来るはずが無い。
あまりにも急な任務に呆然とするイルカの口から、思わずそんな言葉が零れてしまう。
だが、今回の任務は突然舞い込んだものではなかったらしい。
「・・・以前から話はあったんじゃがの・・・」
「え・・・?」
言い辛そうにそう切り出した火影の口から語られたのは、イルカをさらに驚かせるに充分な内容だった。
蓮の国からでは無かったが、その大名からは以前からずっと、とある申し出をされていたのだと火影は言った。
曰く、『イルカを末娘の婿に迎えたい』と―――。
大名を警護する事も多い上忍クラスの忍なら分かるが、中忍であるイルカが小国とはいえ大名の末娘と出会い、さらにはその婿にと望まれるなど、普通ならありえない話だ。
けれど、一昨年だっただろうか。火影の外遊に付き添って蓮の国を訪れたイルカは、火影を歓迎する式典の最中、一人の少女と知り合っていた。
少女と言っても、イルカが受け持つアカデミー生よりは年上だっただろう。たおやかな女性へと成長しつつあったその少女は、だが、あまり世間を知らなかったのか広過ぎる会場に迷子になってしまったらしい。
顔見知りを求めて彷徨う大きな瞳に涙を滲ませながらも、その唇をきゅっと噛み、不安に耐える少女を放っておけなかったイルカは、付き添っていた火影からしばし離れる許可を受け、少女の御付きらしき者たちに出会うまで、その少女とひと時を過ごした。
身に纏う衣装から、身分ある方のご息女だろうとは思っていたが、その少女が蓮の国大名の末娘だったらしい。
その末娘からイルカの話を聞いたという大名が、何を気に入ってくれたのかイルカを是非とも末娘の婿にと火影に打診していたらしいのだが、火影はずっと何かと理由を付けてそれを断ってくれていたのだという。
寝耳に水とはこの事だ。そんな話が持ち上がっていた事すら、イルカは知らされていなかった。
「一体いつからそんな話が・・・」
「・・・一度、わしが『結婚する気はあるか?』と訊ねた事があったじゃろう。あの時からじゃ」
火影からそう言われてイルカは思い出した。
もうだいぶ前の話だ。火影から不意にそう訊ねられたイルカは、「まだまだ未熟ですから。その気はありません」と、苦笑と共にそう答えた覚えがある。
一介の忍であるイルカが、他国とはいえ大名からの申し出を断る事は不可能だ。
火影はイルカのその意思を大切にしてくれ、イルカの代わりに矢面に立って縁談を断ってくれていたのだろう。
だが、何度断っても蓮の国大名は諦める事を知らず、それどころか、イルカを指名した任務を木の葉の里に依頼するという強硬手段に出た。
「・・・イルカよ」
火影に名前を呼ばれ、イルカは知らず俯かせていた顔を上げた。そんなイルカを見つめる火影の瞳が切なく眇められる。
「お主の事は実の息子や孫のように思っておる。出来る事なら断ってやりたかったんじゃが・・・」
木の葉の里に任務として正式に依頼されたのであれば、その任務を特段の理由無く断る事は火影ですら困難だ。
「・・・行ってくれるか」
苦渋に満ちた声でそう言われたイルカは、火影へ向ける漆黒の瞳を切なく眇め、その口元に小さく笑みを浮かべていた。
本当なら、行きたくないと言いたい。
アカデミー教師という仕事に慣れ、張り合いを見出したばかりだ。イルカが今受け持っているクラスには、ナルトという気になる子供も居る。
それに、蓮の国へ行ってしまえば、イルカは恐らく大好きな里へ戻って来る事は出来ないのだろう。
出来る事なら。可能ならば、行きたくないと言いたい。
けれど、これは任務だ。特段の理由無く断る事は火影ですら困難な任務。
中忍のイルカに出来る事といったら、これまでイルカの為に尽力してくれていた火影の為に、せめて笑みを浮かべて頷く事くらいだろう。
「・・・承知」
胸元にすっと掲げた片手で印を組み、火影へとそう告げる自分の声が震えなかった事に、イルカはただホッとしていた。




執務室を辞し、その扉を閉めたイルカから切ない溜息が零れ落ちる。
「・・・イルカ先生?」
横から不意に聞こえてきたその声にハッとする。自然と俯いていた顔を慌てて上げてみると、任務帰りなのだろうか。廊下の先、銀髪を揺らして小さく首を傾げながら、こちらへと歩み寄って来るカカシの姿があった。
「あ・・・」
嬉しい偶然だ。カカシに会えた喜びが胸に溢れるイルカだが、その顔に浮かんだ笑みはいつもに比べて小さなものだった。
カカシの名を呼ぼうとしたイルカだったが、開かれていたイルカの口からカカシの名が出る事は無かった。
「・・・顔色が悪いけど大丈夫?具合でも悪い?」
元気の無いイルカを心配してくれているのだろう。すぐ傍らに立ったカカシからそう訊ねられたが、青褪める顔を俯かせるイルカは、それに応える事が出来なかった。
蓮の国へ派遣されれば、カカシの名を呼ぶ事も、カカシに会う事も出来なくなる。
そう思った途端、イルカの胸が張り裂けてしまいそうな程に激しく痛んだのだ。
それだけではない。痛み続ける胸を抱え俯くイルカの漆黒の瞳に、意思とは関係なく涙まで滲み始めてしまう。
(な、んで・・・)
揺らぐ視界に困惑するイルカの耳に、カカシの心配そうな声が聞こえてくる。
「・・・イルカ先生?」
心配を掛けては駄目だ。
何があったのだとカカシに問われても、今のイルカに今回の事を冷静に話せる自信は無い。
いや。カカシにだけは―――。
顔を上げたイルカは、今にも溢れそうな涙を堪え、その顔に懸命に笑みを浮かべる。
「・・・大丈夫です。何でもありません」
そうしてイルカの口から出たのは、神様同様、それまで何でも正直に話していたカカシを誤魔化す言葉だった。
震えてしまった声と、イルカの瞳に滲む涙に気付いたのだろう。カカシの深蒼の瞳が見開かれる。
これ以上口を開けば、泣いてしまいそうだ。
きゅっときつく唇を噛むイルカは、カカシの脇を急いで擦り抜け、逃げるようにその場を後にする。
(俺・・・っ)
アカデミーへと戻りながら、震える口元を手の甲で押さえるイルカはこの時、自らの胸で大きく育っていた恋心に初めて気付いていた。