繋いだこの手を離さない 8






それから数日後。
引き継ぎの為、混雑する時間帯を避けて受付所へやってきたイルカは、カウンターのいつもの席に着きながら切ない溜息を小さく吐いていた。
どこから漏れたのだろうか。イルカの蓮の国派遣と、大名の末娘との婚姻の噂までもが密かに広まり始めており、どこへ行っても、「頑張れよ」「おめでとう」と声を掛けられるのだ。
いわゆる逆玉の輿だ。それらに続く言葉は、イルカを羨む言葉が大半だった。
本当は行きたくない。結婚なんてしたくない―――。
言えるものならそう言いたいが、そんな事を言える立場にイルカは居ない。励ましと祝福する言葉に「ありがとう」と笑みを浮かべて応える事しか出来ないイルカは、早くも笑みを浮かべる事に疲れ始めていた。
「・・・大丈夫か」
イルカから零れ落ちた小さな溜息を聞かれてしまったのだろう。隣の席に座るヤナギから気遣わしそうにそう声を掛けられ、心配を掛けてしまったかとイルカは苦笑する。
「あぁ、大丈夫。・・・引き継ぎやら何やらで忙しいからな。ちょっと疲れてるだけだ」
引き継ぎ要綱の書かれた書類を手にしながらそう告げると、そんなイルカへ向き直るヤナギの眉根に深い皺が刻まれた。
「なぁ、イルカ。お前、本当に・・・」
「・・・イルカ先生」
ヤナギの声を遮って聞こえてきたその声に、イルカは小さく身体を震わせる。
慌てて前に視線を向けてみると、いつの間に受付所に入って来たのだろうか。カウンターの向こうに、銀髪を揺らして立つカカシが居た。
(あ・・・)
カカシに会うのは、あの時以来だ。
心の準備がまだ整っておらず、カカシに会えて嬉しい気持ちと、それとは相反する気持ちが沸き起こり、カカシを見上げるイルカの漆黒の瞳が僅かに眇められる。
この前の事を問われたくない。じっと見つめてくるカカシから僅かに視線を逸らしたイルカは、だが、報告書を提出しに来たのだろう。手甲が嵌められたカカシの手に報告書がある事に気付き、その顔に笑みを浮かべて見せた。
ここは受付所だ。どんな事があろうとも、無事帰還した者を笑顔で迎える事だけは怠ってはならない。
「お預かりします」
顔に貼り付けたその笑みで、イルカが何も問わないで欲しいと思っている事を察してくれたのだろう。カカシが小さく溜息を吐く。
「・・・お願いします」
差し出された報告書を受け取ったイルカは、それをチェックするために俯きながら、胸を覆っていく悲しみにその漆黒の瞳を切なく眇めていた。
蓮の国へ派遣されるまで、あと十日程しか残されていない。
もしかすると、カカシに会うのはこれが最後になってしまうのかもしれない。
(泣くな・・・っ)
報告書をチェックする自らの視界がじわりと揺れ始めた事に気付いたイルカが、懸命に涙を堪えていたその時。
「・・・イルカ先生。蓮の国に行くってホント・・・?」
頭上から小さく聞こえてきたカカシのその言葉に、イルカはその漆黒の瞳を大きく見開いていた。
(・・・知って・・・)
いつかはカカシにも知られてしまうだろうとは思っていたが、こんなにも早く知られるとは思っていなかった。
イルカの瞳が切なく眇められる。
「・・・はい。急な話で、俺も驚いてるんですが・・・」
報告書から顔を上げないままそう答える自分の声が震えなかった事に、イルカはホッとする。
「・・・来月から蓮の国に行く事になりました」
さすがに顔は上げられなかったが、小さく笑みすら浮かべて蓮の国派遣が事実である事をカカシに告げられた自分を褒めてやりたい。
だが、イルカが平静を保っていられたのはそこまでだった。
「・・・じゃあ、結婚の噂もホントなんですね・・・」
「・・・っ」
小さく呟かれたカカシのその言葉に、イルカの瞳が再び大きく見開かれる。
蓮の国派遣の事だけならまだしも、結婚の事まで―――。
「・・・おめでと、イルカ先生」
イルカが密かに恋心を抱くカカシからの祝福の言葉は、平静を保とうとしていたイルカの心を掻き乱すのに充分だった。それを聞いたイルカの顔が、今にも泣き出しそうな程にくしゃりと歪む。
最も知られたくなかった人に知られ、最も言われたくなかった言葉を言われてしまったのだ。平静を保っていられるはずが無い。
だが、今ここで泣いては駄目だ。カカシを困らせてしまう。
手にするペンをきつく握り、イルカは懸命に声を絞り出す。
「・・・ありがとう、ございます・・・」
僅かに震えてしまっていたが、何とかそう応える事が出来たイルカは、報告書のチェックを急いだ。
より長くカカシとの時を―――。
つい先ほどまでそう思っていたが、今のイルカはもう、みっともなく泣き出すのを堪えるだけで精一杯だ。
「・・・結構です。お疲れ様でした」
最後まで報告書から顔を上げないままそう告げ、チェックを終えたイルカは、それ以上カカシに話し掛けられないよう脇に置いておいた引き継ぎの書類へ手を伸ばす。
「・・・ありがと」
イルカの願望だろうか。少し淋しそうな声でそう告げたカカシが、イルカの視界の端で踵を返す。それを捉えるイルカは、その漆黒の瞳から堪えきれない涙をついに溢れさせていた。
次から次へと溢れ出す涙を誰にも気付かれてはいけない。
きつく奥歯を噛み締めて上がりそうになる嗚咽を堪え、手にした書類で顔を覆い隠すイルカは、しばらくの間、その書類から顔を上げる事が出来なかった。




受付所での引き継ぎを終えた後。
イルカは僅かに泣き腫らした目で、神社の裏手にある崖へと向かっていた。
沈み行く太陽が眩しい。いつものように柵から僅かに身を乗り出し、夕焼けに染まる里を眺めるイルカの漆黒の瞳が切なく眇められる。
イルカがここへ来るのは久しぶりだ。
別人とはいえ、恋心を抱くカカシが神様に良く似ているからだろう。蓮の国派遣と共に結婚が決まっている事を神様へ報告する事が、何となくではあるが躊躇われていたのだ。
だが、今日。そのカカシに結婚の事まで知られていた事で、神様へ報告する決心がようやく付いた。
「・・・サクモ様」
神様にこうして報告する事も、蓮の国へ派遣されるまでにあと何度出来るだろうか。
切ない溜息を一つ吐くイルカは、その口元に小さく笑みを浮かべる。
「最近忙しくてなかなか来れなかったんですが、今日は色々とご報告する事があります」
二十年近くだ。二十年近くもの間、イルカはここで心の内の全てを語ってきた。
色んな事を語りながら、ここから見る里の移ろう四季折々の風景が大好きだった。
蓮の国へ行ってしまえば、大好きなこの風景を見る事も、そして―――。
「・・・好きな人が出来ました」
いつの間にか、その姿を思い浮かべるだけで胸が締め付けられる程に恋焦がれているカカシにも、イルカはもう会う事は出来なくなる。
イルカの口元に浮かんでいた小さな笑みは、だが、あまりにも辛過ぎるその現実にすぐに消え去ってしまった。切なく眇めるイルカの漆黒の瞳に、大量の涙が浮かび出す。
「でも、俺はもうすぐ蓮の国へ行かなければならなくて・・・・っ」
蓮の国へ行ってしまえば、大名の末娘との婚姻が自分を待っている。大好きな里へ戻って来る事も、好きな人に会う事も出来なくなる。
木の葉の忍という証である額当て。それに祈るように組んだ両手を押し当て、神様へそう報告するイルカの声と身体が震え始める。
会えなくなる前に―――。
そう考えた事もあったが、蓮の国への派遣はイルカが木の葉の忍である限り、どうあっても避けられない現実だ。相手にとって迷惑にしかならないだろうこの恋心を伝える事は出来ず、どうする事も出来ない自分の無力さと、そして、この胸に抱えるどうにもならない恋心が辛くて苦しい。
(俺はどうすれば・・・っ)
この苦しみから逃れられるのか―――。
声を押し殺して泣きながら自らの苦しい胸の内を告白するイルカは、夕日が完全に沈んでしまうまで、応えが返る事の無い神様に答えを求め続けていた。