繋いだこの手を離さない 9






時が止まってくれたら―――。
そう願っている時ほど時間が経つのは早い。
蓮の国への出発を早くも明後日に控えたその日の夜、イルカはアカデミーの同僚たちが開いてくれた送別会に出席していた。
(あつ・・・)
酒が入っているからだろう。頬が熱い。
氷水が入ったコップ片手に座敷の中央から抜け出したイルカは、外の風景が夜闇に沈む窓際へと移動する。
春になって暖かくなったとはいえ、夜はまだまだ冷える。僅かに開けられていた窓から、冷たい夜風が吹き込んできている。
「・・・大丈夫か」
心地良い風を受け、漆黒の瞳を僅かに眇めるイルカへとそう声を掛けてきたのは、アカデミーだけでなく受付所でも共に仕事をする事の多いヤナギだった。
隣に腰を下ろすヤナギにイルカは苦笑してみせる。
「少し飲み過ぎた」
皆と呑めるのもこれが最後だ。酒には強い方であるイルカだが、しんみりとした雰囲気になるのが嫌で、いつになく速い調子で飲んでいたからだろう。さすがに少し酔ってしまった。
手に持つ冷たいコップに口を付ける。そうして、ひんやりとした水で酒に焼けた喉を潤したイルカが、酒精漂う溜息をふぅと小さく吐いた時。
「・・・イルカ」
その眉間に僅かに皺を寄せるヤナギから、「お前、本当にいいのか・・・?」と、小さな声でそう問い掛けられた。
それを聞いたイルカの口元に小さく苦笑が浮かぶ。
ヤナギとは幼い頃からの付き合いだ。何が、と聞き返さなくても、イルカにはヤナギの問わんとする所が分かってしまう。
(・・・いいも何も・・・)
素直に蓮の国へ行く以外、イルカに何が出来るだろう。
諦めの悪さに関しては人一倍だと自負しているイルカだが、里長である火影ですら何の手立ても無いのだ。今回ばかりはどうする事も出来ない。
何より、幼い頃からイルカの身を案じ、イルカの為にと心砕いてくれていた火影を、これ以上困らせたくはなかった。
「・・・いいんだ」
手に持つコップに視線を落とすイルカがそう告げると、親友とも言えるヤナギは、イルカの穏やかなその声で胸の内を察してくれたのだろう。
「・・・そうか・・・」
呟くようにそう言ったきり、それ以上は何も言わずにいてくれた。




夜闇にたなびく雲が、天空に輝く月を僅かに覆い隠していく。
冷たい夜風が酔った身体に心地良い。口元に小さく笑みを浮かべて月を見上げていたイルカの視線がゆっくりと下がり、そうしてイルカは、その視線を掌の中にある小さなメモ紙へと向けた。
丁寧に書かれたその文字は、ヤナギの真面目な性格を現しているかのようだった。メモ紙に視線を落とすイルカの漆黒の瞳が切なく眇められる。
表向きは教員派遣という形を取っている為、蓮の国へは両親の形見すら持っては行けない。
戻って来れるかどうか分からないが、保管を頼めるかとヤナギへ訊ねたイルカに、ヤナギは一つ頷き「構わない」と快諾してくれた。
それだけではない。
―――・・・心残りになりそうなものは全部里に置いて行った方がいい。
そう続けたヤナギは、イルカの手に小さなメモ紙を握らせた。
上忍寮という文字と、それから、部屋番号らしき数字。
最低限な事のみが書かれた小さなメモ紙だ。
―――・・・これ・・・。
―――必要無ければ燃やせ。
イルカとは違い、あまり多くを語らず表情にも出さないヤナギだが、幼い頃から今まで、イルカの最も近しい場所に居たのは友人であるヤナギだ。
皆から向けられる祝福の言葉に対し、無理に笑うイルカの恋心に気付いていたのだろう。握らされたメモ紙とヤナギのその言葉で、最後まで泣くつもりは無かったというのに、イルカは涙を堪える事が出来なくなった。
行ってもいいだろうか。
小さな声でそう訊ねるイルカに、ヤナギは精悍なその顔に微かな苦笑を浮かべ、行って来いと背中を押してくれた。
酒が入っているからだろうか。どうにも涙腺が緩い。
再び滲みそうになる涙を堪え、一つ溜息を吐くイルカは、月明かりに照らされながら上忍寮へと向かう。
イルカがこれから会いに行く相手は、暗部としての任務と、上忍としての任務で忙しいだろうカカシだ。会いに行っても、必ず会えるとは限らない。
けれど。
(・・・会いたい・・・)
イルカは明後日には蓮の国へ出発する。
その前に、少しでいい。少しだけでいいから、カカシに会いたかった。
酔いが醒めて来たのだろう。夜風が肌寒く感じられ始めた頃、上忍寮へと辿り着いたイルカの足が、灯りが点る建物の入り口で不意に止まる。
訪問するには非常識といえる時間だ。迷惑になってしまうかもしれない。
今更ながらにそんな事を考え、建物の中へ入るのを躊躇うイルカは、だが、そこから踵を返す事はしなかった。
イルカの足が、ゆっくりと建物の中へと向かい始める。
躊躇っていたイルカを動かしたものは、カカシに迷惑だと思われても良い。最後にひと目会いたいという強い想いだ。
中忍であるイルカが上忍寮に来る事など滅多に無い。メモ紙に書かれていた部屋を探し、イルカはその視線を彷徨わせる。すると。
「・・・やっぱりイルカ先生だ。どうしてココに・・・?」
気配で気付いたのだろう。整然と並ぶ扉の一つが音もなく開き、そこから現れたのは、端正なその顔を口布だけで覆い隠すアンダー姿のカカシだった。
「あ・・・」
もしかすると、もう会えないかもしれない。
そう思っていただけに、カカシに会えた喜びが胸に溢れるイルカの顔に自然と小さな笑みが浮かぶ。
遅くにすみませんだとか、明後日には蓮の国へ行くので挨拶をだとか。
ここへ来た理由を言い訳するための台詞を考えていたはずなのに、だが、イルカはそれらの台詞を告げる事が出来なかった。
カカシの姿を見た途端、それまでイルカの中で鬱積していたものが溢れ出す。
イルカの瞳に自らの意思とは関係無く涙が浮かび、揺れる視界に気付いたイルカは慌てて下を向いた。床を見つめ、零れ落ちそうになる涙を懸命に堪える。
(・・・止まれ・・・っ、止、まれ・・・っ)
泣いては駄目だ。
カカシの前で泣いては駄目だ。
今、カカシに泣いている理由を訊ねられたりしたら―――。
「イルカ先生」
俯くイルカの視界にカカシの足が映り、先ほどよりも近い所から聞こえて来たカカシの声が、イルカが最も恐れていた言葉を告げる。
「・・・どうして泣いてるの」
「・・・っ」
それを聞き、小さく身体を震わせるイルカの瞳から、堪え切れなくなった大量の涙が溢れ出しては零れ落ちていく。
今まで押し殺していた感情が一気に溢れ出し、泣いては駄目だと思うのに、溢れる涙を止める事が出来なくなる。
せめて、みっともなく泣きじゃくる事だけは避けたい。
ここは上忍寮で、いつ誰と遭遇するか分からないのだ。カカシの迷惑になるような事だけは―――。
きつく握り締めた拳の背で口元を覆い、声を押し殺して泣くイルカは、だが、泣き揺れるその肩をカカシのしなやかな腕にきつく抱かれた事で、声を押し殺す事が出来なくなった。
「オレの部屋に行こ。ね・・・?」
耳元で囁くように告げられたその声が優し過ぎて切ない。
しゃくり上げるほどに泣きながら、切なく眇めるその瞳をゆっくりと閉じるイルカは、促すカカシに逆らう事無く、カカシに支えられるようにしてカカシの部屋へと足を向けた。