繋いだこの手を離さない 10






休もうとしていた所だったのだろうか。
灯りが点されていなかったカカシの部屋には、カーテンが引かれていない窓から、柔らかな月明かりが差し込んでいた。
僅かに俯くイルカの涙に揺れる視界の向こう。ベッドに腰掛けるイルカの前に膝を付き、端正なその素顔を晒したカカシが、泣き止む事の無いイルカを気遣わしそうな表情を浮かべて見上げて来ている。
本当は行きたくない。結婚なんてしたくない―――。
全部聞いてあげるからというカカシの優しい言葉と、柔らかく見つめてくる深蒼の瞳に促され、イルカは神様以外、誰にも言い出せなかった事を涙ながらに訴える。
この里が大好きで離れたくない。そして。
「・・・俺は・・・っ」
膝の上で組んだ両手をきつく握り締めながら、イルカは切なく眇めるその瞳から、また新たな涙を零す。
言っては駄目だ。伝えても、この想いはカカシの迷惑にしか―――。
イルカの中でもう一人の自分がそう訴えてくるが、堰を切ったように胸の内を語るイルカの口は止まる事を知らなかった。
「俺は、はたけ上忍とも離れたくない・・・っ」
その言葉でイルカの想いに気付いたのだろう。イルカがそう告げた途端、イルカを見上げるカカシの深蒼の瞳が大きく見開かれる。
次にやってくるだろうカカシの反応を見るのが怖い。組んだ両手で顔を覆い隠したイルカは、その瞳をぎゅっと閉じる。
「・・・イルカ先生」
気のせいだろうか。イルカの膝にカカシの手がそっと置かれ、続いて聞こえて来たカカシの声は僅かに震えていた。
「オレの事が、好き・・・なの・・・?」
掠れた声でそう問われたイルカの身体が小さく震える。
その問い掛けをイルカは否定する事が出来ない。出来るはずが無い。
だがイルカは、カカシに想いを伝えるつもりは全く無かったのだ。肯定するのは躊躇われたが、躊躇いながらもイルカが小さく頷いた次の瞬間。
「・・・っ」
顔を覆い隠し俯くイルカの身体は、カカシの力強い腕の中に囚われていた。突然の事に驚くイルカの閉じていた漆黒の瞳が大きく見開かれる。
「・・・オレも」
イルカの耳のすぐ側から聞こえて来るカカシの低い声。
どこか苦しそうな響きを持つカカシのその声が、続いて思いも寄らない言葉を告げる。
「オレも、ずっとあなたの事が・・・っ」
ずっとイルカの事が好きだった―――。
搾り出すように告げられたその言葉が信じられない。カカシの腕の中、苦しい程に抱き締められているイルカの視線が彷徨う。
嘘だ。そんな事あるはずがない。
カカシの言葉が信じられず、何度も首を振るイルカの片頬にカカシの少し冷ややかな手が添えられ、そうして、涙に濡れるイルカの顔を覗き込んで来たカカシの深蒼の瞳は、見ているこちらの胸が苦しくなる程に切なく眇められていた。
「・・・幼い頃にあなたを助けた神様―――サクモは、オレの父親です」
知らされたその事実にイルカは大きく瞳を見開く。そんなイルカから視線をゆっくりと逸らすカカシの顔が苦渋に歪み始める。
「オレは、あなたを助けられなかった・・・」
「・・・え・・・?」
あの時、崖から落ちそうになっていたイルカを最初に見つけたのはカカシだった。
見つめるイルカから視線を逸らすカカシは、僅かに俯きながらそう言った。
落ちる寸前にイルカの手を掴んだものの、力が足りず、気を失ったイルカの手はカカシの手から離れてしまったのだという。
「でも・・・っ」
あの当時子供だっただろうカカシの手が、あんなに力強いはずが―――。
そう続けようとしたイルカの瞳が徐々に見開かれていく。
(・・・そうだ・・・)
カカシは五歳で下忍になったと噂で聞いた事がある。
あの時既に忍であったのなら、崖下へ落ち行こうとしていたイルカの手を力強く掴む事も出来たのではないだろうか。
それにだ。今思えば、イルカの手を掴んでくれた神様の手は、力強くはあったが、イルカと同じくらいの大きさではなかったか。
「・・・ほんとう・・・に・・・?」
もし本当にそうだとしたら、イルカがずっと慕ってきた神様はカカシだったという事になる。
カカシの手から離れ、崖下へ落ち行くイルカを助けてくれたのはカカシの父親であるサクモなのだろうが、イルカの中での神様は、あの時逆光の中で見た―――。
「・・・ホントですよ」
信じられない思いでカカシを見つめるイルカの手を、カカシの少しひんやりとした手がそっと握る。
「今でも時々夢に見ます。この手が離れてしまった時の事を」
イルカの手を握るカカシの手に力が込められ、それまで俯いていたカカシの顔がゆっくりと上がる。
「・・・今度こそあなたを守りたい。助けられるだけの力が欲しい。その一心で、オレはここまで強くなったんです」
イルカを真っ直ぐに見つめてくるカカシの深蒼の瞳は決して揺らぐ事無く、カカシが告げるそれらの言葉は真実なのだと如実に伝えてくる。
(・・・俺・・・っ)
惹かれるはずだ。
カカシは神様に似ていたのではなかった。幼い頃からずっと、イルカはカカシを想い慕い、そうしてイルカは、目の前に現れたカカシに必然の如く恋をした。
ずっと会いたいと願っていた神様が今、イルカの目の前に居る。
それだけでも嬉しいのに、カカシはイルカを好きだと言ってくれた。
カカシを見つめるイルカの瞳が切なく眇められ、涙が再び溢れ出す。
嬉し過ぎて息が苦しい。そして―――。
(・・・どうして・・・っ)
明後日には蓮の国へ行かなければならない我が身が呪わしい。
嫌だ。カカシと離れたくない。
先ほどよりも強くそう思っているのはイルカだけではないのだろう。涙に揺れるイルカの視界の向こうで、カカシの深蒼の瞳が苦しそうに眇められていく。
「・・・あの崖で神様へ報告するあなたの姿を、オレはずっと見守って来ました。アカデミー教師を目指したほど子供好きなあなたの結婚を、祝福しなければと思いつつも、オレはどうしても受け入れる事が出来なかった」
床に付いていたカカシの膝がゆっくりと起こされ、その片膝がイルカが腰掛けるベッドへと乗せられる。
カカシの体重を受け、ギシと小さく鳴るベッド。
見上げるイルカの頬にカカシの手が沿えられ、銀髪が落ち掛かるその深蒼の瞳には、怖い程に力強い光が宿っていた。
「・・・あなたを誰にも渡したくない・・・っ。ずっと見てきたんだ・・・!あなたの好きな人がオレだと分かった今、あなたを誰かに渡すなんてオレには出来ない・・・っ」
「・・・っ」
唸るような声でそう告げられたイルカの顔がくしゃりと歪む。
どうして―――。
先ほども思った事をイルカはもう一度思う。
イルカはこれまで、忍である自分を悔いた事など一度たりとも無い。
けれど今ばかりは、どうして自分は忍なのかと問わずには居られなかった。
イルカの震える手がゆっくりと伸ばされ、すぐ側にあるカカシのアンダーをぎゅっと掴み締める。
せめて今だけは、忍である自分を忘れたい。忘れさせて欲しい。
「・・・きたくない・・・っ。離れたくな・・・ん・・・っ」
カカシを見上げる漆黒の瞳を切なく眇めながらそう告げるイルカの震える唇は、きつく眉根を引き絞るカカシの唇で熱く塞がれていった。