繋いだこの手を離さない 14






泣きたくなる程に幸せな夢と、身を引き裂かれるような哀しい夢を見ていた気がする。
「・・・気が付かれましたか」
ふと目覚めたイルカの視界にまず映ったのは、高い高い天井と、それから、イルカの顔を心配そうに覗き込む老女の姿だった。
「・・・ここ・・・は・・・」
イルカの声が掠れている。
広い座敷の中央。寝かされていた柔らかな布団から、イルカは軋む身体をゆっくりと起こす。
「火影様のお屋敷でございますよ」
着心地の良い浴衣に覆われるイルカの背を支えてくれていた老女が、額に手を当て、何故自分はここに居るのかと記憶を探るイルカの肩に羽織を着せ掛けてくれる。
「高熱に侵され、受付所で倒れられたと火影様より伺っておりますが、覚えていらっしゃいますか?」
「・・・ッ」
受付所で倒れたと聞いた途端、気を失う前に見たカカシの後姿が脳裏に蘇り、大きく息を呑むイルカはその瞳を見開いていた。
(そうだ、カカシ様・・・っ)
全て思い出したイルカは焦る。
自分がどれだけの間眠っていたのかは分からないが、もしかすると、もうカカシの処分は決まってしまったのかもしれない。
「カカシ様は・・・っ、はたけ上忍の処分はどうなりましたか!?」
布団に片手を付くイルカから、勢い込んでそう訊ねられ驚いたのだろう。呆気に取られたような表情を浮かべていた老女が、続いてその瞳をふと和らげる。
「・・・お急ぎ下さい。今ならまだ間に合うかもしれません」
傍らに置かれていた忍服を手に取る老女から告げられたその言葉は、もう手遅れなのかもしれないと半ば諦め掛けていたイルカの希望を繋いでくれた。




額当てを身に付けながら、イルカは運び込まれていた火影の屋敷から駆け出す。
イルカが意識を取り戻したのはつい先ほどだ。まだ僅かに足がふら付くが、走れない程ではない。
(急がないと・・・っ)
二日だ。
慣れない身体で何度もカカシを受け入れたからだろう。高熱を出したイルカは、受付所でカカシがイルカを陵辱したと宣言したあの日に倒れ、それから丸二日も眠っていた。
五月晴れの蒼い空から降り注ぐ夏を思わせる太陽の日差しが眩しい。
二日が経ち、蓮の国へ派遣されるはずだった五月に入ってもイルカが里に居るという事は、カカシのあの発言がカカシの思惑通りの効果を見せたという事だろう。
カカシを止める事は出来なかったが、カカシに下される処分だけは何としてでも止めなければ。
瞳を僅かに眇めるイルカはそうして、今まさにカカシの処分が審議されているという執務室へと急ぐ。
執務室のある建物は火影の屋敷からそれ程離れていない。
だが、高熱に侵されていたからだろう。少しの距離だったというのに、執務室の前に辿り着いたイルカの息が荒い。
(・・・落ち着け・・・っ)
重厚な扉を前に、イルカはゆっくりと一つ深呼吸をする。
そうして息を整えたイルカは、意を決し、目の前にある扉を力強く叩いた。「失礼します」と、返事を待つ事無くその扉を開ける。
開けた先。そこに予想外の人物を見止めたイルカの瞳が僅かに見開かれる。
(ご意見番のお二人まで・・・っ)
今回の一件が、それだけ大事になっているという事なのだろうか。火影在する執務室には、火影だけでなく、里のご意見番であるホムラとコハルの姿まであった。
「・・・お主は呼んでおらんぞ。イルカ」
奥の執務机に着く火影からそう言われたが、その前に立つカカシの後姿を見止め、その奥歯をぐっと噛み締めるイルカが執務室を出る事は無かった。カカシの横に急いで並び立ち、イルカは真っ直ぐに火影を見据える。
「・・・私も当事者です。この場に同席する権利はあるはずです」
カカシの決意の固さを物語っているのだろう。真っ直ぐに前を向くカカシの視線が、すぐ傍らに立つイルカに全く向けられようとしない。だが。
(処分なんてさせて堪るか・・・っ)
たとえカカシがそれを望んでいるのだとしても、何の罪も犯していないカカシが処分されるのを黙って見ているなんてイルカには出来ない。
余計な事をと思われてもいい。すぅと小さく息を吸い、イルカはカカシの無実を訴える。
「私は陵辱などされていません。あれは合意の上でした。はたけ上忍は、蓮の国へ行きたくないと言った私の為にあんな事を・・・っ」
「・・・それでも」
必死に陳情するイルカの言葉を、火影の傍らに立つホムラの静かな声が遮る。
「合意の上だったとしても、お前の為だったのだとしても。婚姻の話が出ていたお前を皆の前で陵辱したと宣言したのだ。他国の大名の顔を潰したカカシには何らかの処分を下さねば示しがつかん」
「・・・っ」
冷水を浴びせ掛けられたようだった。それを聞いたイルカの奥歯がぐっと噛み締められる。
自分が「あれは合意だった」と訴えさえすれば全て丸く収まる。
そう思っていたが、事は木の葉だけの問題ではない。蓮の国が関わっている。
蓮の国が許さないとなれば、カカシどころか里にまで迷惑を掛ける事になるのだろう。下手をすれば、友好関係にある両国の外交問題にすら発展する。
他に何か手立ては―――。
事を穏便に済ませ、カカシも助けたい。その手段を懸命に考えるが、一介の忍であるイルカに出来る事は哀しい程に少なかった。
イルカの為にと身を挺してくれたカカシを助けたいのに、何も出来ない自分の無力さが悔しい。
唇をきつく噛み、僅かに俯くイルカの漆黒の瞳に涙が滲んでいく。だが。
「・・・相手が文句を言ってくればの話じゃがな」
小さな溜息と共に聞こえて来た火影のその言葉に、イルカは急いで顔を上げた。
上げた先。イルカを見つめる火影の瞳が、イルカの漆黒の瞳と視線が絡んだ途端、柔らかく細められる。
「婚姻の話は内密に進められていたものじゃ。木の葉はお主が派遣されない理由を隠してはおらんからの。多少の苦情と嫌味は言われるやも知れぬが、お主を婿にとはもう言わんじゃろう。それどころか、婚姻の話など最初から無かった事にされるはずじゃ」
「あ・・・」
火影から子供に説明して聞かせるように優しくそう告げられ、イルカはカカシの本当の思惑にようやく気付く。
丁寧に抱かれた事をかんがみても、最初からそのつもりだったという訳ではないのだろうが、眠りに堕ちたイルカが発熱し始めたからだろう。
重い処分が下される可能性が多少なりともあったというのに、それでもカカシは堂々と、火影や皆の前でイルカを陵辱したと宣言してくれた。
「・・・陵辱したなどと言い里を騒がせたカカシには厳重注意処分。それもイルカの為だったと分かれば、今回の一件もそのうち皆の記憶から忘れ去られるだろう」
溜息を吐きながら告げられたコハルのその言葉にイルカはホッとする。
だが、イルカがホッとしていられたのは僅かな間だった。
溜息を吐き切ったコハルが、続いて難しい表情を浮かべたからだ。一言も発しようとしないカカシを、コハルの厳しい眼差しがひたと見据える。
「・・・さすれば、お前がイルカを伴侶に迎える必要などどこにも無いぞ。カカシ」
低く告げられたコハルの言葉を聞いたイルカの瞳がゆっくりと見開かれていく。
「・・・え・・・?」
伴侶とはどういう事だろうか。
説明を求めるイルカの視線がカカシへと向けられたが、それでも、カカシの視線がイルカへ向けられる事は無かった。