いつも同じ場所で 5






金曜日の午後。
論文の発表を終えたカカシは、会場の外に設置されたソファに溜息を吐きながら座ると、きっちりと締めていたネクタイを少し緩めた。
(やっと終わったー)
何とか論文を書き上げて、学会での発表に間に合わせる事が出来た。
今回のように短期間で書き上げた事なんてなかったから、やれば出来るんだなとは思うが、その分、体はぼろぼろで。もうこんな事は二度とやりたくないとも思う。
それもこれも、自己管理がなっていないから。恋に溺れているからこんな事になるのだ。
でも、その恋心を捨てきる事は、やはりカカシには出来なくて。
今も、携帯を取り出し、イルカへと『学会がやっと終わった』とメールをしている。平日の昼間だから、小学校にいるはずのイルカからの返信は遅くなるだろうが、きっと来る。『お疲れ様でした』と返信してくれるに違いない。
そして。来週の月曜日は、いつものあの電車でイルカに会える。
それが嬉しい。
もう一ヶ月以上イルカに会っていないから、イルカに会いたくて仕方が無い。
イルカの声が聞きたい。笑顔が見たい。
ソファの背に凭れて、学会の会場となっている施設の高い天井を見上げ、そのまま目を閉じれば。
微笑んでカカシの名を呼ぶイルカの顔が見えた気がした。


自己管理がなってない。
それを今日ほど痛感した事は無い。
あれほどイルカに会えるのを楽しみにしていた月曜日の朝、カカシは出勤時間になってもベッドの上に横になっていた。
理由は簡単だ。
これまでの食欲不振に、学会までろくに睡眠もとらずに論文を書いていたから。
秋になった涼しさも手伝って、カカシは学会の翌日の土曜の朝から、風邪からくる発熱に苦しんでいた。
喉が痛むし、熱が高くてぼんやりとする。
食欲なんて全くなくて。水分だけは辛うじて摂っていたが、淋しい一人暮らしでは誰も看病なんてしてくれず。
ただひたすら、家にあった市販の解熱剤を飲んで熱が下がるのを、ベッドで大人しく寝て待つしかなかった。
(連絡、どうしよう・・・)
大学には病欠の連絡を既に入れてあるが、イルカへの連絡をするかしないかでカカシは悩んでいた。
学会は終わったのに、電車に乗っていないカカシを心配して、またイルカがメールしてくるかもしれない。
でも、今回は本当に倒れてしまっていて。連絡した方が心配を掛けてしまうような気がする。
適当な嘘をつこうにも、熱のある頭では都合のいい理由が見つからなくて。
うだうだと悩んでいたら、枕元に置いてある携帯がブブと震えた。
が、連続して震えるそれに、メールではなく着信なのだと気づく。
(誰だろ・・・)
朝から連絡してくるような人に心当たりはなくて。
ごそごそと布団の中から手を伸ばして、パチと開いた携帯の画面を覗くと、そこに、うみのイルカの文字があって驚いた。
急いで通話ボタンを押してから、声ががらがらなのを思い出した。
こんな声ではすぐにイルカに風邪を引いたと知られてしまう。でも、もう携帯は通話状態になってしまっていて。
諦めたカカシは、出来るだけ普通の声が出ますようにと祈りながら、声を出した。
「もしもし」
でも、出たのはいつもの声とは程遠い、どこからどう聞いても風邪を主張している声で、なんて声だと思った。
これではイルカに心配させてしまうではないか。
案の定、携帯の向こう側のイルカが心配そうな声で、
『おはようございます、カカシ先生。風邪ですか?』
と、小学校の先生らしくしっかり朝の挨拶をした後、風邪を言い当ててきた。
「ん。おはよ、イルカ先生。風邪ひいちゃった」
もうバレているのだからと、開き直って正直に伝え、
「それより、電話してくるなんてどうかしたの?何か用事?」
と訊ねると。
『学会終わったのに、カカシ先生が電車に乗ってなかったから心配で・・・』
なんて。イルカに心配してもらえたのが嬉しくて笑みが浮かぶ。
「ごめんね、心配掛けて。こんな声だけど、大丈夫だよ。ちょっと疲れが出ただけだから」
でも、これ以上イルカに心配をかけたくなくて、大丈夫じゃないくせに、大丈夫と嘘を吐いた。
ちらと視線を上げて壁の時計を確認すると、いつもの電車に乗っているのなら、もうイルカの降りる駅に着いている頃で。
イルカの周りから聞こえてくる音が煩いから、駅からかけているのだろうと思う。
「もう学校に行く時間でしょ?急がないと、遅刻するよ?」
そう言って、早めに切ろうとしたカカシの耳に、微かに駅のアナウンスが聞こえてくる。それはどう考えても、いつもイルカが乗る駅に、イルカがまだいる事をカカシに知らせてきて。
「・・・イルカ先生、今どこにいるの?」
確認の為にと、聞いてみたら、
『・・・○○駅です』
と、やはり、思った通りの駅名がイルカから返ってきた。カカシの眉間に皺が寄る。
「何でまだそこにいるの?学校は?」
『今日は運動会の振替休日で休みなんです』
言われて、あぁ、そういえばもうすっかり秋で、小学校は運動会の季節なんだなと思った。続いて疑問が沸き起こる。
「え?じゃあ、どうして駅に来てるの?何か用事?」
『それは・・・』
携帯の向こう側にいるイルカが言いよどむ。
きっと今、ちょっと困った顔をしているのだろう。
その顔を想像して、カカシはハッとした。こんなに根掘り葉掘り、それほど仲良くない人に聞かれたら、誰だって困る。
ごめん、言わなくていいよ。
そうカカシが言おうとする前に、イルカの少しだけ小さくなった声が聞こえてきた。
『ちょっとだけカカシ先生に、会いたかったから・・・』
その言葉を聞いて、想像していたイルカの困った顔は間違いで、恥ずかしがっている顔が正解なのだと気づいた。
ただでさえ、発熱で心臓に負担がかかっているというのに、さらに血流が早くなるのが分かる。
『あんなに毎日顔を合わせてたのに、急に一ヶ月も会えなかったから気になってしまって。明日になれば会えるとは分かってたんですけど・・・』
全くカカシを意識してなかったイルカが、会えなかった一ヶ月の間に、カカシの事を意識してくれるようになったのだろうか。
どんな気持ちで会いたかったなんて言っているのか、イルカの真意を探ろうにも、熱で回らない頭では考えが纏まらなくて。
とりあえず声を出そうとして、喉が痛み咳が出る。
咄嗟に携帯の通話口を塞いだが、イルカには聞こえてしまっていたようで。
『カカシ先生っ、大丈夫ですか!?』
「ごめ・・・っ、大丈夫だから」
苦しい咳の合間になんとかそう答えると、電話の向こうでイルカが小さく『来て正解だったな』と呟いた。
「え?」
『これから伺います。カカシ先生の住所、教えて下さい』
「なんで・・・」
今まで、カカシの家がどこにあるかなんて聞いてきた事なんてないのに。どうしてイルカが急にそんな事を聞いてきたのか分からない。
『カカシ先生の事だから、ろくに食べてないでしょう?俺、今日は休みで暇ですから、作りに行きます』
教えて下さい。
イルカに、いつになくはっきりきっぱりとそう言われて、断っても多分、絶対に行くと言いそうだなと思ったカカシは、お言葉に甘えて来てもらう事にして。
イルカに初めて、カカシのプライベートな事であるマンションの住所を教えた。